村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【タイランド】(『神の子どもたちはみな踊る』より)

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 本作にはリゾート地としてのタイランドの魅力が伝わってきます。道路の真ん中を象が歩くというエキゾチックな街並みを想像しながらお付き合いください(^^)/

 

《あらすじ》
状腺の専門研究員のさつきは、タイの学会を終えたあとも滞在を続けた。彼女は更年期障害のホットフラッシュに加えて、過去に起きた悲劇的な出来事を心に引きずっている。心身ともにリフレッシュして日本に戻る最後の日、ある貧しい村に住む呪い師を紹介された。そこで彼女は、身体の中に白くて堅い石があることを告げられる。

 

『その石を捨てなくてはなりません』

「石には字が書いてあるのですが、日本語なので、彼女には読むことができません。黒い墨で小さく何かの字が書いてあります。それは古いものなので、あなたはきっと長年にわたってそれを抱えて生きてきたのでしょう。あなたはその石をどこかに捨てなくてはなりません。」

 

つきは、過去三十年間に渡って一人の男を憎み続けてきた。それは彼女の心身を蝕んでいる。民間信仰のやや怪しげな宣託によって、憎しみから癒しへと、心の針を引き戻す転機を手に入れた。しかし、それを成就させるには『言葉による判断を停止しなければならない』という助言が添えられる。

 

【判断保留(エポケー)】

 哲学者のフッサールは「現実に対するあらゆる判断を留保すること(エポケー)」を指南しています。そうすることで「この世界にはもはや客観的事実は存在せず、私たち一人一人の視点の数だけ真実が存在する」という意識の普遍的構造が見えてくるといいます。

 

 例えば、私たちはざっくりとリンゴと呼ばれる対象を見て、疑いもなく「リンゴ」と認識します。赤いと聞けば黒ずんで見えたとしても「赤い」と見なし、美味しいからと勧められると多少すっぱく感じても「美味しい」と口にします。「リンゴ」「赤い」「美味しい」はいずれも客観的事実を捉えてはいません。それでも《言葉》という視点を与えることによって、そこに事実とは異なる固有の「存在」と「意味」が立ち上ります。

 

 フッサールの考えを推し進めると、人は誰しも《言葉の世界》の中で生きていることになります。私たちは言葉がもたらす「存在」と「意味」を、あたかも物が実在するのと同じような仕方で受け取っています。そうした意識構造は、私たちの日々を紡ぐ《言葉の世界》を《別の言葉》に組み替えることで、人生が再生し得ることを暗示しています。

 

 この物語には、主人公のさつきが憎しみや悔恨や希望などの言葉による判断を一旦留保することで、新たな再生のイメージが訪れるのを待つ姿が描かれています。それがどんなイメージで、どんな変化を彼女にもたらすのか興味は尽きませんが、フッサールが解明した心の構造について最後に少し付け加えておきます。

 

【他者との対話】

 フッサールによると、私たちは他者との対話を通じなければ意識に浮かぶイメージを認識する術がありません。孤立した状態では、心にどんな自由なイメージを得たとしても、それを意識に取り出すことは出来ません。あるいは、外部から閉ざされた集団の中では、その集団の支配的な考え方から抜け出すことは不可能です。それはカルト教団や独裁者の国に限らず、私たちの誰もがはまり得る落とし穴です。

 

 今回はどうも分を越えた話題に踏み込んでしまいました。私の説明が足りない部分はWikipedia等で補足してくださいますようお願いします<(_ _)>

 

【神の子どもたちはみな踊る】(『神の子どもたちはみな踊る』より)

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 今回は表題作のご紹介です。『神の子どもたちはみな踊る』は、ジャズのスタンダード・ナンバーから来ています。「しかめっ面なんかしてないで、歌って踊れば悩みなんて振り払えるよ!」と歌った黒人霊歌が原曲です。陽気なリズムをイメージしながら本作を読み進めてみたいと思います。

 

《あらすじ》
親と暮らす善也は神谷町の出版社に勤めている。信仰にのめり込む母親の突発的で破滅的な行動が心配で、25歳の今にいたるまで彼は家を出ることができずにいた。ある日の帰宅途中、耳たぶの欠けた男を目撃した彼はあとをついていった。「欠けた耳たぶ」は彼の生物学的な父親に関する数少ない手がかりのひとつだった。

 

『僕は何をもとめていたのだろう』

僕はいったいこのことで何をもとめていたのだろう?歩を運びながら善也は自分に問いかけた。僕は自分が今ここにあることの繋がりのようなものを確かめようとしていたのだろうか?自分が新しい筋書きの中に組み込まれて、より整った新しい役割を与えられることを望んでいたのだろうか?

 

也は自分が追い回していたものの正体が、自分自身の「影」であったことに思い至る。そして、神様のお使いで被災地に赴いた母親のことを思い、別れた恋人のことを思った。信者の一人である田淵さんのやせ細った手を最期に握ったときのことを思った。自分を取り巻く物事の輪郭が、少しずつ明確になっていくのを義也は感じる。

 

教条主義VS批判主義】

 物語の主人公のように、自分を取り巻く環境がどうしても受け入れ難いと感じられる場面が、誰の人生にもきっと訪れます。そんな時には、それまでに自分が抱えていたものの見方を一から考え直してみる必要性が生じます。

 

 哲学者のカントもそうであったかは分かりませんが、彼は人間の理性・感性などを根本から問い直しています。それは「私は何を知り得るか《純粋理性批判》」「私は何を為し得るか《実践理性批判》」「私は何を望み得るか《判断力批判》」という有名な三つの問いです。

 

 そのカントが下した結論のひとつが、「人間はこの世界の本質を客観的に認識することは出来ない」というものです。例えば、「真、善、美」という理想は、「認識され得るものではなく、ただ意志され得るだけだ」と彼は語っています。

 

 もし仮に、人間や世界の「ほんとう」が全て明らかになってしまったとしたら、私たちはそれ以上に何かを知ろうとすることも、何かを成そうとすることも出来なくなりはしないでしょうか。それはむしろ自由を奪われるのと変わりありません。こう考えると、カントが導いた「人は世界の本質を認識し得ない」という結論は、逆説的に私たちの自由意志を保証してくれています。

 

 この物語には、幼いころから自分を拘束してきた教条主義に対して、カント的な批判主義を自分の中に取り込むことで人間的な成長を遂げる2世信者の生き方が描かれています。ただこの作品は、教条主義と批判主義のどちらが正しいかを問題にしているわけでもないようです。その両極を行きつ戻りつしながら、自由でしなやかな心を失わないことが何よりも大切であるように私には感じられました。

 

【アイロンのある風景】(『神の子どもたちはみな踊る』より)

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 今回も奇妙なタイトルのついた作品のご紹介です。『アイロンのある風景』とは鹿島灘の小さな町に住む三宅さんが、阪神・淡路大震災の直後に描いた絵のタイトルです。「流木が燃える冬の海岸」「全てを一瞬で壊滅させた地震」「部屋の隅に置かれたアイロン」 この不思議な取り合わせが導いた結末について考察してみたいと思います。

 

《あらすじ》
1995年2月のある晩に三宅さんから焚き火の誘いの電話がかかってきた。順子は啓介と共に浜に向かい、いつものようにジャック・ロンドンの『たき火』のことを思う。その物語の中で何よりも重要なのは主人公の男が死を求めているという事実。腹が痛いと言って啓介が帰った後で、三宅さんはおもむろにそのジャック・ロンドンについて語り始めた。

 

『真っ暗な夜の海で』

ジャック・ロンドンは真っ暗な夜の海で、ひとりぼっちで溺れて死んだ。アルコール中毒になり、絶望を身体の芯までしみこませて、もがきながら死んでいった。予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をはるかに超えて生々しいものなんや。」

 

ャック・ロンドンが身代わりにしたものの正体は不明だが、三宅氏がその話をした理由は物語の断片をつないでいくことで浮かび上がる。震災の地である神戸の東灘区に残してきた妻と二人の子どもたちへの負い目。彼はその代償として、狭い冷蔵庫に閉じこめられて死んでいく悪夢に苦しめられ続けていた。

 

【先駆的決意性】

 哲学者のハイデガーによれば、死の覚悟をもつ者だけが《良心の呼び声》を聴くといいます。そして、自分の死に向かって決然と生きていくことを、彼は《先駆的決意性》と名付けました。

 

 人生の目的は幸福を追い求めるだけとは限りません。それと同じか、あるいはそれ以上に、私たちは「真に人間らしくありたい」と望んでいるのではないでしょうか。死を受け入れようと決意するときに、そのような純粋な想いが結晶化するというハイデガーの考えにはうなずけるものがあります。

 

 この物語には、啓介や順子との対話を通じて、電源を切ったアイロンのように冷え込んだ三宅さんの心が、温もりを取り戻していく様子が描かれています。罪の代償に抗し続ける人生と死への憧憬。最後に三宅さんが死を持ち掛けると、順子は素直に応じてみせます。その時、二人の心に《良心の呼び声》は響いたか? その答えは読者自身の想像に委ねられます。

 

§追記§

 村上春樹原作の『ドライブ・マイカー』がアカデミー賞の国際長編映画賞を受賞しました。まるで自分のことのように嬉しいです。近いうちにこのブログでも作品のご紹介をしたいと思います。濱口監督おめでとうございます!ヽ(^o^)丿

 

【UFOが釧路に降りる】(『神の子どもたちはみな踊る』より)

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 今回から『神の子どもたちはみな踊る』に収められた6つの作品をご紹介します。いずれの作品も「1995年の2月の出来事」という設定なのですが、その年の1月に発生した阪神・淡路大震災に深くかかわり、3月に起こる地下鉄サリン事件を予見する内容になっています。まずは奇妙なタイトルをつけられた本作から。

 

《あらすじ》
から五日後、小村が仕事から家に帰ると妻の姿はなかった。離婚書類を提出して有給休暇を申請していると、同僚の佐々木から北海道の釧路までの旅を依頼された。釧路の空港では二人の若い女が出迎える。小村が地震のあとに出ていった妻のいきさつを話すと、女の一人が「私の知り合いにも、一人そういう人がいた」と語り始めた。

 

『野原の真ん中に大きなUFOが降りてきた』

「サエキさんっていう人がいるんだ。釧路に住んでいて、40くらいで、美容師なんだけど。その人の奥さんが去年の秋にUFOを見たの。夜中に町外れを一人で車を運転していたら、野原の真ん中に大きなUFOが降りてきたわけ。どーんと。『未知との遭遇』みたいに。その一週間後に彼女は家出した。」

 

UFOの話はそれ以上の広がりをみせることもなくそれっきり。このあと小村は二人に誘わるがままにラブホテルへと向かう。彼女たちの罠にはめられたことに彼が気づいたのは、色仕掛けの籠絡が終った後だった。

 

【自己疎外】

 個性や人格が閉塞した人間関係に埋没してしまった結果、他人に対してだけでなく、自分自身に対しても疎遠な感じにとらわれてしまう状態を《自己疎外》と言います。変化の激しい現代社会で自己の主体性を失い、何事に対しても漠然とした違和感をもち、喜びも悲しみも喪失した状態は、誰でも少なからず身に覚えがあるのでは。

 

 この物語には、小村氏が《自己疎外》の果てにカルトの勧誘まがいの罠にはまっていく様子が描かれています。人の心のスキにつけこんでいく女性たち自身もまた《自己疎外》に囚われているように感じられます。

 

 例えば、『UFOに連れ去られた主婦の話』には、現実的な奥行きも想像力の働きも見出せないに薄っぺらな話にもかかわらず、彼女たちはその奇妙さを疑うことなく熱く語っています。それは、炎や、煙、瓦礫の山などの震災の映像に対する小村氏の共感の欠如となんら変わりありません。本書が描こうとしているのは、こうした無関心社会に向けられた問いかけではないでしょうか。

 

  自己の主体性を回復し他者への共感を育むにはどうしたらよいのでしょうか?

 

 それについて、この連作のご紹介を通じて私なりに考えてみたいと思います。震災当時の状況を知る人もそれを伝え聞く人も、ご一緒にその答えを探してみませんか。

 

【スプートニクの恋人】

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 本書は『ノルウェイの森』以来の恋愛モノです。小説家志望の女性が登場し、過去の作品ではお目にかかれない可愛らしい文章も登場します。また、随所に小説指南や人生訓が挿入されていて、中期村上作品のエッセンスがギュッと詰まったお得な内容になっています♡

 

《あらすじ》
学校の教師をしているぼくは、すみれに思いを寄せている。しかし彼女はミュウという17歳年上で既婚の女性に恋をしていた。そして二人で出かけたギリシャの島で、すみれは突然姿を消してしまった。ミュウからの連絡を受けたぼくはその島に向い、必死の探索を続けるがすみれを見つけることはできなかった。

 

『井戸のような深い場所』

すみれがどこか人里離れたところで井戸のような深い場所に落ちて、そこでひとりぼっちで救助を待ってるというイメージを、ぼくはどうしても頭から振り払うことができなかった。

 

みれはミュウへの性的接触を拒まれたことをきっかけにして、煙のように消えてしまった。実はミュウ自身も、二つに分裂してしまったもう一人の自分を消した過去がある。二人の不思議なエピソードを踏まえて『ぼく』はひとつの仮説を立ててみる。

 

すみれはあちら側に行ったのだ。それでいろんなことの説明はつく。鏡を抜けて、すみれはあちら側に行ってしまったのだ。おそらくあちら側のミュウに会いに行ったのだ。

 

『ぼく』には「あちら側」に行ってしまったすみれについて具体的に証明することが出来ない。島の夜に「あちら側」から響いてくる調べを耳にしたことは、間違いのない真実なのだ。

 

【個性化の過程】

 心理学者のユングは「自我が自己との相互作用で成長し、個人が自己の内に潜在している可能性を実現し、高次の全体性へと向かうプロセス」を《個性化の過程》と呼んでいます。

 

 《個性化の過程》であるべき自分の姿を取り戻すとき、人は様々な矛盾や葛藤と向き合うとされます。例えば、すみれのように同性愛に目覚めたり、ミュウみたいにドッペルゲンガーによる自我障害に見舞われたりといった体験は、時に心の成長を促す起点になります。

 

 そうした心が不安定で危険な時期には、精神的なこと(=あちら側)にこだわりすぎず、かといって物質的なこと(=こちら側)にもこだわりすぎず、その両面に向き合っていかなければならないのですが、すみれもミュウもその両極にはまり込んで抜け出せなくなってしまったようです。

 

【一滴の雨水】

 物語の終盤に語られる、『ぼく』と万引き少年との邂逅の場面を引用します。

 

 ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れこんでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。

 

 遠い過去から連綿と続く私たちの営みを『大きな河の河口』としてイメージしてみると、生命の源への郷愁を抱えつつも、一人ひとりが『一滴の雨水』のように存在する心の有り様に思い至ります。私たちが他者との絆を求めあうのと同時に、自立して『個性化』を目指して生きる理由を解く鍵が、そこにあるように思えます。

 

【殺人詩人】(『犬の人生』より)

 14回にわたってご紹介してきた本書の最後の作品のご紹介になります。今回はこれまでのような「ちょっと変な感じ」を通り越して、「猟奇的な感じ」にまで踏み込んでいます。果たして殺人詩人が書いた詩集は芸術に値するのか? 作者であるマーク・ストランドは何を語ろうとしているのか? 最後の謎解きにお付き合いください。

 

《あらすじ》
西洋沿いにある貧しい小さな島国の国家文芸評議会は、毎年出版された本の中からもっとも優秀なものを選んで賞を授与していた。その年の最終選考会では、検討協議に先だって評議員たちのあいだでは既に合意に達していた。ある一冊の本が群を抜いて傑出していたのだ。それはようやく日の目を見た私の友人スタンリーの処女詩集だった。

 

『犯罪と文学的達成』

「しかし彼の誠実さに報酬を与えれば、彼の犯罪を容認しているという印象を与えることになるかもしれません。それは彼の犯罪だけを取り上げて、彼の文学的達成を見逃してしまうのと同じことではありますまいか」

 

タンリーは理由もなく両親を殺害し、一片の悔恨の情を示すことなく死の肥沃さについて詩に書き留めた。彼の優れた才能を評価する一方で、いかにして彼の犯した忌むべき犯罪を糾弾するべきか。その困難な命題を解決するために、評議会は衝撃的な結論を導き出す。

 

カリブ海文学】

 過酷な植民地支配のもとで欧米社会への服従を強いられたカリブの人々の間からは、反抗と革命、アフリカへの望郷と復帰を願う《カリブ海文学》が生まれました。そこには、欧米文化から自立し、白人対黒人の構図を超えた新たなアイデンティティを求める気運がみなぎっています。

 

 本作には《カリブ海文学》が育まれる土壌で、架空の文芸作品が物議を巻き起こす様子が描かれます。物語後半で明かされる詩人の手記には殺人の経緯が淡々と書かれていますが、彼の詩集そのものは『不可思議な厳粛さ』と『神秘的な一貫性』が込められていました。

 

 犯罪というバイアスを取り払おうと、私は何度も繰り返しスタンリーの手記を読み返してみました。その結果、正直に言えば詩人の想いを理解するところまでには至りませんが、過去に話題となった文芸作品を思い返しながら、次のようなイメージを思い浮かべました。

 

  スキャンダラスな問題作に対して人は誰しも賛否の渦を巻き起こし、やがてそれは名作の誕生に添えらるエピソードと化す

 

言論の自由

 アメリカ国民にとって《言論の自由》が最も大切な権利とされています。思想・良心の自由を重んじた合衆国憲法修正第1条は、「人々が同意する言論ではなく、人々が憎悪する言論を守るために存在する」とさえ言われています。マーク・ストランドの全ての作品に大前提として《言論の自由》の思想が息づいて、今回の作品は特にそのことを強く考えさせられました。

 

 2022年3月の現在、私たちはロシアの暴挙を目にして《言論の自由》の大切さを痛切に感じています。しかし間違わないようにしたいのは、《言論の自由》は憎悪する相手を排除するための道具ではないということです。

 

 憎悪する相手との対話を通じて、たとえ理解や共感に至ることが出来なかったとしても、お互いの立場を認め合う共生共存の道が何処かにあるはず。おそらくそれが、この先も続いていく平和への長い道のりの到達点ではないでしょうか。

 

【ドロゴ】(『犬の人生』より)

 

 ドロゴとはこの物語に登場する青年の名前です。詩人と思われる語り手の心象風景のなかに彼は現れて、言葉数少なめに詩人に詰問します。その相克は何を意味するのでしょうか? ドロゴの正体は何なのでしょうか? 残り少なくなった謎解きに引き続きお付き合いください。

 

《あらすじ》
ロゴの父親はイタリア軍の中尉で東部国境に駐屯している。母親のマリアは私のもっとも親しい友人である。私はドロゴを実の息子のように思い、彼の成長に大きな役割を引き受けていた。私はドロゴを伴って旅をした。彼が私と共にいることで幸福な気持ちになれるのだとばかり私は思っていた。

 

『もうおしまいにしてしまいたい』

私は言った。「私がお前に『ローマとヴィラ』や『ローマ熱』や『ローマのひととき』を読んであげたときのことを。あの熱気と靄のことを思い出してごらん。ポルゲーゼ公園の草だってうとうととまどろんでいるように見えた。オスティアの海はあまりにも明るく輝いていて、空がそのまま燃え上がってしまいそうに見えたじゃないか」(中略)ドロゴは椅子の背にもたれかかった。「こんなことをもうおしまいにしてしまいたい」と彼は言った。

 

先で味わった喜びが、「私」を盲目にしていたのかもしれない。「私」は自分の権威や文学の有徳性を自明なものと捉え、彼をあたかも「私」の創造物のようにみなしていた。しかし、彼の為に選びとってきたはずの人生は、彼の苦悩の原因になっていた。

 

反知性主義

 《反知性主義》とは、知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる思想です。とりわけアメリカでは、偏った知性がもたらす寡頭支配に対する大衆の反感が根深いために、政治・経済・文化のあらゆる場面で、「とりすました貴族的なもの」と「野卑で庶民的なもの」が対立してきました。コーラやハンバーガーやジーンズの社会への浸透は《反知性主義》の熱狂ぶりを象徴しています。

 

 本作には、知的権威の詩人と反知性主義のドロゴとの対立が描かれています。詩人のドロゴに対する愛情や誠実さに疑いの余地はありませんが、頭でっかちで野暮ったい言い回しはドロゴの心に響きません。一方のドロゴの反発は未熟で粗野なものですが、知の欺瞞に対する確信は揺らぎません。

 

  人は誰しも知性(精神)と情緒(肉体)の相克を乗り越えて健全な社会を志向する

 

 アメリカの大統領選挙などでしばしば見られる知性と反知性の対立は、私たちの目には奇異に映ることもあります。もしかするとそれは、私たちがいまだに権威主義に対して盲従する傾向にあるせいなのかも知れません。どうかこの先も、自由で平等な世界から私たちが取り残されたりしませんように、と願うばかりです(-_-;)