村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【慈悲の天使、怒りの天使】(『バースデイ・ストーリーズ』より)

 作者のイーサン・ケイニンハーヴァード大学で医学博士号を取得した経歴をもつ異色の小説家です。彼の書く物語は華々しさはないものの誠実で端正な雰囲気をもつ正統派。80年代に登場したヒップな作家たちとは一線を画していると言われています。

 

《あらすじ》
とり暮らしの老女の71歳の誕生日に、窓から鳥の群れが飛び込んできた。その多くは悪臭と叫び声をまき散らして外に出ていったが、二羽が居間の奥へと迷いこんだ。彼女は息子に電話をかけて助けを求めるが、遠方にいるためにどうにもならない。緊急センター窓口でも断られ、動物愛護協会から派遣された黒人女性によってようやく騒動は解決した。

 

ブッシュ大統領様』

ブッシュ大統領様 私はルーズベルト大統領の友人でありこの手紙を書いている今日八十回目の誕生日を迎えております。私は今日私の人生に出し抜けに飛び込んできた珍種の生き物について書きたいのです。そしてそれはまさにあなたのような方からの助力を必要としています。

 

女が誰彼となく訴える窮状はエスカレートしていくばかり。思いがけず動物愛護協会から誕生日の花束が届けられたことで彼女は少し冷静さを取り戻した。そして彼女は大統領に向けた手紙をしたためる。相も変わらず、事実と異なる脚色をたっぷりと加えながら。

 

【癒しの文学】

 不安や受け入れがたいストレスを軽減し、自己スキーマ*1を維持しようとする無意識の心理的カニズムのことを《防衛機制》と呼びます。このような抑圧は、現実の否認や認知の歪みとなってその人の言動に表出します。

 

 フロイト学説によれば、人は絶えず欲動のエネルギーを防衛し続けているとされます。過去の文化的活動や創造的活動は、この欲動のエネルギーが昇華した結果であるとまで言われることも。また、人の感受性は多様であり、そこに働く《防衛機制》は、退行、抑圧、反動、分裂、否定、投影、受容、自虐などさまざまな様相に派生します。

 

 本作に登場する老女の奇妙な言動には、夫と死に別れ、頼りの息子が遠方に越していってしまったことに起因した自己破壊的な欲動への《防衛機制》が感じられます。作中に登場する鳥たちは、老女の心に怒りを引き起こすだけでなく、慈悲の心をも芽生えさせる存在です。孤独な高齢者が抱える心理を追体験する秀逸な作品でした。

 

 こうした読書体験から、社会的弱者への優しい気持ちが芽生えたり、唯一無二の事象に自己投影したりして心の癒しを感じる読者は私だけではないはず。何を隠そう《癒しの文学》こそが私の求める理想の文学です!(*'ω'*)

 

 80年代の若手作家たちは、このような普遍化できない個人的な物語の中に、新しい文学の価値を見出していきました。とりわけ、社会から見過ごされてきたマイノリティーの境遇からは《癒しの物語》を無尽蔵に取り出すことが出来ます。これが《ポストモダン文学》の潮流の一つとなっていきました。そしてその《ポストモダン文学》もいつの間にか・・・それについてはまた別の機会に。

*1:人の認知活動の基礎となる外界を理解する枠組み、あるいは内的な知識を使用する枠組み。これによって知覚や言語に関する理解が可能になり、種々の技能的行為も滑らかに遂行できるようになる。

【⑧木の中のフェイス】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 グレイス・ペイリーの文章を受け入れるには『いささかの顎の強さが必要とされる』と村上春樹は語っています。今回ご紹介する作品はまさにその通りで、次々に現れる登場人物の込み入った人間関係と時代背景を理解するために、何度も読み返すことになりました。あきらめずに食い下がることで見えてきたこの作品の概要をご紹介します。

 

《あらすじ》
所の公園で子どもたちと私(=フェイス)が無為に時を送っていた頃の話。私には二人の小さな男の子がいて、すべての愛情を彼らに注いできた。しかし、アメリカが裕福さかを越えて絶対的な帝国へと向って進んでいたこの時代に、私たち家族は「終わりなき文化的停滞状態」に押し込められていた。

 

『神様が造りたもうた女の一人として』

私は、神様がふと思いなおされて造りたもうた女の一人として、地上十二フィートの高さの、鈴懸の長い頑丈な枝の上に、足をぶらぶらとさせながら座っている。私にはキティーの姿しか見えない。キティーは母親業の仲間だ。この稼業では最高に腕がいい。(中略)もう一人の仲間であるアンナ・クラートはそのすぐ近くで、公園の硬いベンチに座り、憂鬱そうな、しかし美しい顔で、運勢が好転するのを待っている。

 

「私」は生意気な子どもたちを抱えて、頼ることのできる男を求めた。キティーは愛情深かったが、行きずりの男たちとの間に子供をもうけた。アンナは美人だったが、性格は最悪で男たちを惑わせた。その日に起こった物事は「私」のその後の人生を大きく変えるきっかけとなる。

 

【社会活動前史】

 1963年に出版した『新しい女性の創造』が反響を呼んだ作家のベティ・フリーダンは《ウーマンリブ運動》を牽引しました。彼女は多くの女性が「夫を見つけ、子どもを産む」こと以外に自己表現の手段が無いと指摘し、女性たちに新たな役割と責任を探求し、独自のアイデンティティを見つけることを奨励しました。

 

 フリーダンの活動は、性差別禁止法の可決や最高裁判決による人工中絶の権利の獲得など多くの功績を残した一方で、保守的な反対派を生み出しました。反対派の主張は「男女平等は法的手段を通して実現可能で、集団として男性を敵に回して闘う必要はない」というものでした。ウーマンリブは常にこうした正反の一進一退を繰り返して来ました。

 

 本作は社会活動の闘士となった「私(=フェイス)」が《ウーマンリブ運動》が始まる以前の日常を振り返るという設定です。ママ友同志のたわいもないおしゃべりは、人種・宗教・格差・環境・戦争を巡る正反の意見が飛び交うカオス状態。そんなフェイスに、息子の口から幼き声のエピファニー(啓示)がもたらされます。

 

 作品の中で何かに苛立ち興奮して喋りまくる主人公の姿には、現状に満たされない複雑な感情が投影されていると推察しますが、今の私の理解力では微妙な言葉の裏をこれ以上読み取ることは出来ないので、何らかの前向きな雰囲気を感じとったところで今回は読了。

 

 さて、次回から『社会活動家兼小説家』として生まれかわった主人公のフェイスが、家族や友人、周りの人々を巻き込んで新たなドタバタ劇を繰り広げていきます。その意味で、今回の作品は短編集の流れを変えるターニングポイントとなりました。わき目もふらず突き進む彼女の信念を支えているものは何なのか?彼女と子供たちに訪れる運命は何か?次回以降もご期待ください!

 

【永遠に頭上に】(『バースデイ・ストーリーズ』より)

 作者のデイヴィッド・フォスター・ウォレスはニューヨーク出身の作家で、挑発的な文体と内容で注目を集め、ポストモダン文学の旗手の一人と呼ばれました。また、オタク気質を抱えながら若者達を指南する伝説的スピーチを残すなど、一筋縄でいかない人物でもあります。双極性障害に生涯悩まされ続け2006年に46歳で他界。死因は自殺とされています。

 

《あらすじ》
13回目の誕生日を迎える少年の心と身体には、いくつかの重要な変化が訪れている。脇の下に生えた毛。深みを増した声。悩ましい眠りの中の夢精。少年の希望で、その日の午後に彼は家族と共にプールにやってきた。少年はできれば一人で来たかった。ある一つの挑戦をやり遂げるために。

 

『さっさと上って、実行してしまうんだ』

誕生日おめでとう。それはでかい一日だ。南西部の頭上に広がる天蓋よりでかい一日だ。君はそのことについてじっくり考えた。あそこに飛び込み台がある。もうすぐみんなは引き上げようと言い出すはずだ。さっさと上って、実行してしまうんだ。

 

のあと、少年は大人たちに混じって飛び込み台の最上段に登っていく。そこからプールにダイブするまでの少年の心は、次第に不可解かつ自閉的な妄想を巻き込みながらその瞬間へと進んで行く。

 

【教養文学の終焉ふたたび】

 本作を読んでいると、先の《教養文学の終焉》という問題について再び考えさせられます。現代社会では普遍的な真理や、理想を正当化する価値観が崩壊していて、精神が空洞化しつつあるという例の問題です。

 

 一般的に教養は人の知識・常識を測り、社会的信用を作り出し、品位や人格を育むとされてきました。しかし、1970年代以降世界的に流行したポストモダン思想の潮流のなかでその自明性は揺らぎます。社会の多様化によって、人々の間に共通する包括的な価値観が消失したことが原因とも言われます。文学においても、過去に積み上げられた形式や理念を徹底的に解体する運動が起こりました。

 

 本作では、少年が飛び込み台の先端にこびりついた人々の足跡を見つめながら、その先の跳躍をためらう場面が描かれます。当然のことながら、いくら人々の足跡を見つめたところで、そこには何の意味も答えも見出すことはできません。かと言って後戻りもできない瀬戸際で、少年は大きな決断を迫られます。

 

 私にはこの『こびりついた人々の足跡』が、過去の文学が刻んできた痕跡を象徴しているように思えてなりません。それを踏み越えた先にあるものが何であれその先に進むしかない! そんな作者の熱い想いが感じられます。

 

 さて、この《教養文学》の解体を目的とした次なる文学が何を発見し、何を生み出したか気になるところではありますが、この短編集の後半でご紹介できればと思っています。今回はここまで。

 

【⑦来たれ、汝、芸術の子ら】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 『来たれ、汝、芸術の子ら』は英国の女王メアリー2世の誕生日を記念して作曲されました。清々しい朝にふさわしい明るい雰囲気の名曲です。ところが本作ではその曲の登場に先だって、朝の寝床で夫が妻に語りかける愚にもつかない会話から始まります。

 

《あらすじ》
ッドの上に寝そべってジェリーはキティーに語りかけている。ニュージャージー大司教管区を牛耳るろくでなしのザンダキスについて。そのかげで金儲けしているグラッドスタインの哀れな先行きについて。さらにその下で自分のやっているビジネスと呼ぶには程遠いちんけな商売について。ジェリーはうそぶいてみせる、神様について俺は夢見るんだと。

 

『それがうまい手なんだ』

なあキティー、お前みたいな人柄なら、きっと何か商売を始められるよ。たった一年でいいから、何か売り買いするんだ。それがうまい手なんだ。

 

ェリーが考えるうまい手とは、抜け目のない姉貴のようなやり口を指す。それは銀行マンを騙して巨額の融資を引き出してビルを建てた、という嘘か本当か分からない逸話。ひとしきり話して憂さを晴らした彼は、ろくでなしのザンダキスも、哀れなグラッドスタインも、神様のことさえも、今ではどうでもよくなった。

 

【理想の男性像】

 ある情報サイトに《理想の男性像》が出ていたので列挙してみます。

「顔立ちが整っていてイケメン」「身長が高い」「誠実な性格で一途に彼女を思ってくれる」「裏表がなく嘘をつかない」「誕生日や記念日や盛大にお祝いしてくれる」「辛い時や落ち込んだ時になぐさめてくれる」「社会的地位の高い仕事に就いている」「高収入でお金持ち」(Smartlog『女性が思う“理想の男性像”とは?』より)

 

 《理想の男性像》の条件が一つとして当てはまらないのは私だけでしょうか?重度の誇大妄想癖と自己顕示欲にまみれた私の取るに足らない毎日を、妻はあーだこーだと言いながらも支えてくれます。そんな日常が人様の目にどう映ろうが、私たち二人は互いに理想の夫婦です('ω')

 

 本作では朝の寝床で男が女に与太話を聞かせています。どうやらこれは二人の間のお決まりのシチュエーションみたいです。女が慣れた調子で相槌を打つうちに男は機嫌を取り戻し、身重の彼女に代わって朝食を作り始めます。焼き立てのベーコンとワッフルの香りがキッチンから漂い、ラジオからは『来たれ、汝、芸術の子ら』の旋律。ここに描かれているのは、私たち夫婦と同じ、お気楽カップルの日曜日の一コマでした。

 

【これまでのおさらい】

 グレイス・ペイリーの短編集から7作品をご紹介してきましたが、本ブログでは異例の長期連載になりましたので、これまでのおさらいをしておきます。

 

 本書の特徴は、作者本人の多様な側面が登場する《フェイスもの》と市井の人々に焦点をあてた《民間伝承もの》が交互に描かれることです。フェミニズムの活動家らしく社会問題を切り口にしていますが、グレイスは小説家としての矜持によって自前のプロパガンダを封じ、登場者の視点をつぶさに描くことに徹しています。

 

 例えば、本作⑦は「夫の視点」でしたし、前作⑥は「妻の視点」でした。さらに「⑤息子の視点」「④娘の視点」「③母の視点」「②友人の視点」「①作者の視点」という風に作品ごとに書き分けられています。これまで繰り返しコメントしてきましたが、いずれもどこかしら歪んだものの見方を抱えています。

 

 この歪んだ視点の総体が映し出そうとしているものは何なのでしょうか? そして、この歪みは最後の瞬間に大きな変化をもたらすことが出来るのでしょうか? 残り10作品を通じて考えてきたいと思います。引き続きお付き合い頂ければ幸いです。

 

【ダイス・ゲーム】(『バースディ・ストーリーズ』より)

 作者のポール・セローは旅行作家として名を成した人物です。村上春樹はよほどこの方と縁があるのか、この後も彼の短編集に加えて彼の息子の作品まで翻訳しています。世界中を飛び回った体験から紡ぎ出される奇想天外な物語。今回はその一端を垣間見る本作をご紹介します。

 

《あらすじ》
る黒人紳士がホノルルのホテルのバーで金髪のサーファーを相手にダイス・ゲームで争っている。彼は名の知れた公認会計士で、堅実な仕事ぶりの一方でギャンブルに情熱を傾ける一面があった。今日は彼のご自慢の白人妻の誕生日だが、彼女は早々に部屋に引き上げている。サーファーが姿を消した後もバーに留まる彼が気にかかり、支配人である私は話しかけてみた。

 

『どっかの男が彼女を抱いた』

「去年は僕らはラスベガスに行った。シェリル(妻)はついていて、クラップ・テーブルで500ドルもうけた。どっかの男がやってきて、縁起かつぎに彼女を抱いた。『あんた、最高についてるよ』とみんなは言った。君に見せてやりたかったな」

 

『縁起かつぎに彼女を抱いた』というセリフが「私」は気になってならない。なおも話の続きを聞いていくと、彼は妻の誕生日に男をプレゼントしているというではないか。そして今も例のサーファーと二人で部屋に居るらしい。「私」は不測の事態に備えて、部屋の近くに二人のボーイを差し向けた。

 

ギャンブル依存症

 《ギャンブル依存症》は長きにわたり社会規範に反した逸脱行為のひとつと見なされてきましたが、1977年にWHOによって依存症の一つに分類されたことで精神疾患として認識されるようになりました。

 

 例えば、勝ち負けに刺激的な演出が加わり、過剰なドーパミンが分泌されることで脳疾患を引き起こしていく人が多数存在します。特に留意すべき症状としては「自殺念慮」が挙げられ、治療中の人たちの半数にその兆候が見られるという報告もあります。「やめたくても、やめられない」状態は、もはや意志の弱さや性格の問題だけで片づけることのできない病状と考えられています。

 

 物語に描かれるのは、ギャンブルにからめて妻の誕生日の背徳行為に自ら手を貸す夫の姿。今宵も彼はダイス・ゲームに勝利を収め、地元のサーファーを彼女のもとへ送り届けました。このような行為を繰り返せば、やがて取り返しのつかない事態に見舞われることでしょう。しかし彼らは「やめたくても、やめられない」だけでなく、「夫婦の問題」から目を逸らすために自ら破滅を招いているとも言えます。人の心には説明のつかない闇が存在することを感じさせます。

 

 旅先で出会った奇妙なエピソードという体裁の作品ですが、なんとなくぞわぞわしてしまう恐ろしい物語でした。いずれ機会が訪れたらポール・セローの短編集をまとめてご紹介したいと思います。

 

【⑥生きること】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 今回ご紹介する作品はグレイス・ペイリー作品を特徴づけている「フェイスもの」です。意味深なタイトルなのでじっくりと読み始めたのですが、そうした思いは作者の策略によってあっけなくかわされました。文学理論も文芸トレンドもどこ吹く風。ペイリーが描く独自の世界観にお付き合いください。

 

《あらすじ》
リスマスの三週間後にエレンが死んだ。これまで私(フェイス)とエレンは、威張りくさった亭主や騒ぎまわる子どもたちを置き去りにしながらさまざまな政治的活動に身を投じてきた。葬儀の場では、気丈に振る舞う彼女の息子の姿があった。

 

『養子にしてもいいのよ』

「でもうちで引き取って養子にしてもいいのよ、どう?」と私は訊いてみた。彼がもしそうしてほしいと言ったら、そのお金やら部屋やらおやすみの挨拶がのびる十分の時間やらはいったいどこから工面すればいいのかしらと思い悩みつつ。

 

は丁重に「私」の申し出を断った。その後の『エレンもあなたのことそれは誇りに思ったでしょうに』という言葉に対して彼が放った『死んだらもう何も思わないよ、フェイス』というセリフが「私」の中の欺瞞を揺さぶる。

 

【不条理文学】

 《不条理文学》とは、一般的に「非合理的な出来事に本質的な原因や意味などない」あるいは「どのように不条理に対処していくべきか」というテーマで描かれた作品を指しています。本作も友人の死を巡って乾いた文章が綴られた《不条理文学》に属する作品に感じられます。

 

 例えばカミュは、ペストという自然の摂理に対峙したときに浮かび上がる人間の不条理について語りました。カフカの場合は、理由の分からないまま告訴され、有罪の判決を受けた主人公が素直にそれを受け入れる異常性によって生きることの非合理さを描きました。どちらも不条理を題材にした人間性の探求がテーマになっています。

 

 さて、本作も「生きること」に根差した不条理文学と呼べるのでしょうか? エレンの死の理由は最後まで明かされませんし、フェイスは出血しつづける謎の病に侵されます。医者は『永久に出血することはありません。血が出つくすか、どこかで止まるか、どちらかです』という冗談のような診断を下しますが、結局フェイスの体はクリスマスが過ぎ去るとけろりと回復して、エレンの葬儀に立ち会っています。

 

 ただ、私は本作を何度も読み返しているうちに、主人公である主婦のまわりで起こる出来事には不可解はあれど、不条理は存在しないことに気が付きました。そもそもこの物語の違和感は、語り手の女性の矛盾にみちた認知にこそあるようです。こうした《内的不条理》を引き起こした原因が、エレンの死を悼む気持ちであることは間違いありません。

 

 生身の体につきまとう訳の分からないものごと。それは論理的な説明に回収されない肉体と精神のズレを引き起こす。今の私の頭のなかには様々な考えと感情が溢れ出かかっているのですが、整理がついたら別の機会にご報告します。今回はここまで。

 

【皮膚のない皇帝】(『バースデイ・ストーリーズ』より)

 作者のリンダ・セクソンはモンタナ州立大学の教授兼作家。どちらかというと小説よりも宗教学の哲学、思想の面で功績をあげている人物のようです。彼女の経歴紹介には、村上春樹によって日本語に翻訳されていることが輝かしい実績として記されています♡

 

《あらすじ》
年の4歳の誕生日に三人の老婦人がやってきた。彼女たちはどことなく大型の水鳥みたいに見える。蝋燭のついたケーキが用意され、三人の老婦人はハッピー・バースデイを歌い、一人ずつプレゼントを手渡した。恒例のおとぎ話を少年がせがみ始めると、母親は少年の相手を彼女たちにまかせ、皿を集めて部屋を出ていった。

 

『昔むかしあるところに皮膚のない皇帝がおりました』

「昔むかしあるところに皮膚のない皇帝がおりました」と彼女は言った。「皇帝はまるで象牙の彫り物とサテンのクッションを、赤と青の細い糸でしっかりと縫い合わせたみたいに見えました。そこにふたつの問題がなければ、皇帝はきっと幸せであったことでしょう。」

 

婦人たちが即興で作り出すお話はすでに語りつくされた童話がもとになっている。定番のお話に別の要素を放り込んで、そこから新たな世界観を探り出すという運び方をしていた。三人の老婦人と少年が作り出す『皮膚のない皇帝』のお話の行方や如何に。

 

【裸の王様】

 『裸の王様』は人間心理の弱点を辛辣に捉えた寓話としてアンデルセンの代表作の1つとされています。ご存じの通り、身の回りに批判者や反対者がいないために本当の自分がわかっていない権力者に対する皮肉が込められています。

 

 ちなみに『裸の王様』は、スペインの作家ファン・マヌエルの『ルカノール伯』が元ネタです。アンデルセンは、仕立て屋が織った布が見えないという嘘に惑わされる者を「血筋」ではなく「分不相応な地位にある者」に改めたり、王様は裸だと喝破する役を「馬子」ではなく純粋無垢な「子供」に置き換えたりして、世にも不思議な伝奇モノを不朽の名作に作り替えました。

 

 さて、本作の作中作は明らかにこの『裸の王様』がベースになっています。少年は老婦人の膝の上で物語の結末に思いをめぐらし、皇帝に皮膚が無い謎を解き明かしていきます。元のお話がバラバラに解体され、新たに意味付けされていく様子が描かれます。

 

 私は本作を読み終えて、アンデルセンの時代には存在しなかった《国民国家*1》を思い浮かべてみました。ポピュリズムが蔓延する現代では、単純な権力批判だけでなく、権力の背後にある世論も批判の対象となります。つまりここでは《国民国家》という大きな物語そのものが問い直されています。

 

 本書に描かれるように、世の中を覆う虚偽や無知蒙昧を吹き払うのは、いつの時代もきっと少年のような純粋無垢な精神なのでしょう。世間のしがらみから抜け出せない私は、奥田民生の曲を聴きながら「人の息子」が大活躍するのを信じて待っています('ω')♪

*1:絶対王政下の「君主」に代わって「国民」が主権者の位置につくことによって形成された国家システム。「国民」はさまざまな権利を有すると同時に、納税、兵役、教育の義務を担うこととなった。