村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ウィズ・ザ・ビートルズWith the Beatles】『一人称単数』より

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【要旨】

  •  高校の薄暗い廊下、美しい少女、揺れるスカートの裾、そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」のレコード・ジャケットが作り出す時代の幻想。
  • 心と身体に働きかけた『歯車』の一節。底知れない孤独の闇。
  • サヨコの死を通じて異なる世界の二人の幻想が一瞬だけ重なり合う。

 

【1960年代の景色】

 「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPを抱えていたあの美しい少女とも、あれ以来出会っていない。彼女はまだ、1964年のあの薄暗い高校の廊下を、スカートの裾を翻しながら歩き続けているのだろうか?

 

 1960年代を振り返る時、ある一定の年齢に達した人々は、全共闘運動に象徴される「政治の季節」を思い浮かべるのではないでしょうか。当時の若者たちを政治への関心に向かわせたこの風潮を思想家の吉本隆明は《共同幻想》というキーワードで分析しています。

 

  同じ時期、ビートルズの来日によってサブカルチャー・ブームが起きています。政治闘争というメインカルチャービートルズというサブカルチャーが混在する奇妙な時代。吉本隆明はこうしたメインとサブの関係を《共同幻想》と《個人幻想》の対比によって読み解いています。

 

【秋の終わりに】

僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのはなんとも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

 

 その当時、『僕』がサヨコの兄に朗読して聞かせた芥川龍之介の『歯車』の一節です。本書を書き終えたあとに自殺に至った芥川が、何に苦しめらたのかは分かりませんが、それに触発されたサヨコの兄は、自分が抱える原因不明の病気について語っています。

 

【サヨコの死】

  所詮ぼくみたいなものの力では、妹の命を救うことはできなかったかもしれんけど、何かを少しでもわかってやることはできたはずや。あいつを死に導くことになった何かをな。

 

 後年になって、サヨコの自殺に対して兄は後悔をにじませます。同じ屋根の下で暮らしながら、二人は違う景色を見ながら生きてきました。それは『僕』とサヨコの関係についても同じであったと語られます。

 

【僕らが生きていく意味】

 1960年代のある秋の終り、芥川の『歯車』を介して『僕』とサヨコの兄が共有した何か。それは二人の間でしか通じない個人的な心象風景であったと思われます。再会した兄が『飛行機病(=芥川を死に導いた個人幻想)』について言及しているシーンがそのことを物語っています。

 

  ・・・不確かな時代を生き延びて、いまふたたび死と孤独を見つめる二人・・・

 

 もしもこの不確かな人生を通じて見知らぬ他者同士が出会い、偶然にも心を通わせることができたなら、『僕らが生きていくという行為に含まれた意味らしきもの』の一端を見出すことが出来るのかもしれない。そんな風に本作は読むことが出来るのではないでしょうか。

  

【終わりに】

  この作品はかつて時代を席巻した《共同幻想》《個人幻想》の思想をなぞりながら、「死を受け入れて生きる」という初期の村上作品のテーマを振り返っているように思われます。短編集『一人称単数』のなかでも、最も多いページ数やその文面に注がれた熱量から、作者渾身の一篇であることは間違いないと思われます。