本書は、デビュー間もない村上春樹が取り組んだ初短編集の表題作です。彼の作風はこののちいくつかの変遷を遂げていますが、改めて読み返すと、40年たった今でも物語の軸となる部分は変わっていないことがよく分かります。
【要旨】
- 中国人教師への信頼に、希望が芽生えた幼少期。女子留学生の抱える孤独に、心を痛めた学生時代。中国人コミュニテーに閉じこもるセールスマン。
- 車窓に映る街の景色はいつか崩れ去るだろう。
- だからこそ僕は、中国行きのスロウ・ボートを待っている。
『小学校の教師』
どんなに仲の良い友だちでも、やはりわかってもらえないこともある。そうですね?わたくしたち二つの国のあいだでもそれは同じです。でも努力さえすれば、わたくしたちはきっと仲良くなれる、わたしはそう信じています。
引用は「僕」が模擬テストで訪れた小学校で、中国人教師が日本人の子どもたちに向かって語ったセリフです。何かに感化された「僕」は、机の上に見知らぬ誰かに宛てたメッセージを書き残します。
『女子留学生』
ねえ、もう一度初めからやりなおしてみないか?・・・・・・たしかに僕は君のことを殆んど何も知らない。でもね、もっと知りたいと思う。それにもっと君のことを知れば、もっと君を好きになれそうな気がするんだ。
中国人女子留学生との些細な行き違いから生まれた「僕」のセリフです。ここでも国籍の違う彼女と互いに理解し合いたい、という「僕」の気持ちが溢れています。
『セールスマン』
俺は君と同じ理由で、昔のことをひとつ残らず覚えてるんだよ。全く妙なものだよね。どうにも忘れようとすればするほど、ますますいろんなことを思い出してくるんだよ。困ったことにさ
社会人となった「僕」の前に現れた高校時代の中国人の友人。忘れようにも忘れられないという学生時代について語っていますが、もはやこれを字義通りに受け止めることは出来ません。
3つのエピソードは日中間に横たわる過去の不幸な歴史を問い直している
【歴史の審判】
本書の舞台である80年代は、ポストモダンの潮流が文学にも押し寄せてきた時代でもあります。ポストモダンについて語る人たちは、近代的理念やイデオロギーが語られなくなる状況を指して《大きな物語の終焉》と表現しました。
この作品を、日中間の過去の不幸な歴史という大きな物語がいまだに人々のなかで終焉していないと読むか、それとも個人レベルの歴史観という小さな物語の始まりと見るかは、読む人それぞれの判断に任されると思います。
しかしいずれにしても、ボクたちの社会が公正な歴史の審判を受けていない、というのが作者の見解であることは間違いないでしょう。だからこそ「僕」はここではない場所をめざして「中国行きのスロウ・ボード」を待ちます。
§追記§
最近発表された作品『猫を棄てる』を通じて、村上文学のルーツが、父親が関与した中国大陸での軍歴に根差していたことが明らかになりとても衝撃を受けました。このような初期の作品から一貫してそのことに言及していたことにあらためて深い感慨を覚えます。