短編集『中国行きのスロウ・ボート』に収録された5つ目の作品であるこの短編は、作者の初めての長編作品『羊をめぐる冒険』の発表を挟んで書かれたものです。豊かな物語性を持っているという点で、先の4作品からは格段の進化を遂げています。
【要旨】
- 僕が芝生を刈っていた頃の回想録。
- 別れた彼女の手紙が僕に付きつけたもの。
- 過去の記憶を不器用に積み重ねながら僕は小説を書いている。
『僕が芝生を刈っていた頃』
べつにたいした理由はない。遠くまで行くのが好きなのだ。遠くの庭で遠くの芝生を刈るのが好きなのだ。遠くの道の遠くの風景を眺めるのが好きなのだ。
彼女と別れたばかりの僕は、アルバイトにも見切りをつけて最後の仕事に向かいます。緑鮮やかな夏の景色を背景にロックンロールを聞きながらライトバンを走らせていく青春のひとコマが描かれます。
『別れた彼女からの手紙』
「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけれど」と恋人は書いていた。「私は自分が何かを求められているとはどうしても思えないのです」
最後のアルバイトを終えた時、僕は別れた彼女の手紙を思い浮かべます。それは利己的な信念に向けられた現実からの異議申し立てのように響きます。
【記憶から物語が生まれる】
この物語は職業作家になった「僕」が過去を回想するという形式です。小説の成り立ちを見つめる「僕(=作者)」の視点を段階的に取り出してみました。
レベル1:記憶が時の洗礼を受けて熟成し、言語化された概念を産み落とす。
「別れた彼女からの手紙」
レベル2:その概念に別の具象的な情景が結びつき、蝕知可能な物語が動きだす。
「バイト先で出会った女との交流」
レベル3:読み手の想像力を喚起し、非現実へと導く文体が整えられる。
「女の娘と別れた彼女との非現実的な結びつき」
レベル4:遠い夏の日の記憶が、読者の無意識に語りかける。
「僕の物語があなた(読者)の物語を喚起」
物語は現実と非現実が無意識のトンネルを辿って結びつきます。その文学的な発想のダイナミズムは、後に《メタファー》というキーワードで読み解かれるようになります。ボクには村上文学が目指すスタイルが、この作品によってようやくその姿を現したように思えます。