村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて】「カンガルー日和」より

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 《恋愛》にまつわる都会の片隅のメルヘンが描かれた作品です。抽象化された情景に遠い日の記憶が呼び覚まされます。

 

【要旨】

  • 原宿の裏通りを歩いていた僕は「100パーセントの女の子」と出会う。
  • 花屋の店先ですれ違った彼女は、振り返れば人混みの中に消えていた。
  • 僕は話しかけるべきであったのだ。「昔々」で始まり「悲しい話しだと思いませんか」で終わるその科白を。

 

『四月のある晴れた朝』

四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。たいして綺麗な女の子ではない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方には寝ぐせがついたままだし、歳だっておそらくもう三十に近いはずだ。

 

花屋の店先ですれ違った彼女を目にしたとき、「僕」の胸は不規則に震え、口の中はカラカラ。彼女へのメッセージは、ある恋の始まりと終わりの物語に託されます。「僕」はなぜこのような物語を語ろうとしたのでしょうか?

 

【楽園の記憶】

 わがままや勘違い、その当然の結果としての失恋の繰り返し、というボクの恋愛遍歴。あの頃のボクを突き動かした純粋さは、責任や、忍耐や、経済力の要請を受け始めた頃から徐々に失われていきました。無垢な心は本作のように、人生のどこかで通過されてしまうものなのかもしれません。

 

 心理学的には《エロス的な原理》が心に働き始める頃に、最初の「理想の女性像(男性像)」が立ちのぼります。それは生理的な快-不快だけでなく、美-醜、善-悪といった精神的な価値観を伴って人生を色鮮やかなものにします。しかし、そのような楽園に安住できる時間は短く、自我の形成と共に社会的な承認欲求が高まり、やがて現実社会に自分を投げ出す日が訪れます。

 

 なぜこんな堅苦しい説明をしているのかというと、村上作品における《恋愛観》の一端がこの作品から感じられるからです。それは極めて個人的な体験であると同時に、その始まりにおいて普遍的な何かを含んでいます。誰かを愛するという自己愛からの大きな一歩。しかし、それは《喪失》という形でしか取り出すことが出来ないものなのかもしれません。村上作品はこうした《喪失》を通じて生のあり様を感じとり、文学として味わうことを目指しているように思われます。

 

 本作を起点として後に『1Q84』という風変わりな作品が生み出されるのですが、それについてはまた別の機会に。