村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【彼女の町と、彼女の綿羊】「カンガルー日和」より

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 本作は特定の日時や場所・固有名詞が使われていて、まるで私小説のような作品です。札幌の冬の到来を思い浮かべながら、主人公の心によぎるのはきっとあの《羊の物語》ではないでしょうか。

 

【要旨】

  •  東京で作家をしている「僕」は札幌の街で古い友人と交流する。
  • ホテルのテレビに映し出された「彼女の町」の広報映像。
  • 「僕の街」の冬の到来に向けて「僕」は準備を始めなければならない。

 

『故郷から遠く離れて』

東京を出る時にはTシャツ一枚だった。羽田から747に乗り、ウォークマンで九十分テープを一本聞き終えるか終えないかのうちに、僕はもう雪の中にいる。

「こんなもんだよ」と僕の友人は言った。「いつもこのくらいの季節に初雪が降るんだ。そして冬が来る」

 

札幌の街で古い友人と落ち合い、互いの近況について報告し合う場面。友人は旅行代理店に勤めていて世界中を飛び回り、「僕」は東京で作家になっていました。思い描いていた場所から遠く離れてしまった今の自分を振り返ります。

 

ホテルのテレビはローカル・ステーションの広報番組を映し出していた。僕は靴をはいたままベッド・カバーの上に横になり、ルーム・サービスのスモーク・サーモン・サンドウィッチを冷たいビールで喉の奥に流し込みながらぼんやりと画面を眺めていた。画面のまんなかには紺のワンピースを着た若い女の子が一人、ぽつんと立っていた。

 

R町の町役場の広報課に勤める女性が、テレビ・カメラの前で小さな町をPRしています。彼女の町の情景と冬の到来を想像しながら、もうどこにも戻れないかもしれないという一抹の不安が胸によぎります。

 

 本作を読んで、ボクが東京で新社会人として働き始めた頃のことを思い出しました。慣れない環境のなかで必死にもがく日々。故郷を遠く懐かしく感じたものです。都会に確たる足場もなく、かといって故郷に戻るつもりもない。

 

     『もうどこにも戻れないかもしれない』

 

 作中のこのセリフは、当時のボクの心境を代弁しているようにも感じられました。

 

【長編作品の舞台裏】

  この作品は、作者初の長編『羊をめぐる冒険』の取材で北海道を訪れた直後に書かれたようです。生活の基盤となっていたジャズ喫茶の経営を他人に譲り渡し、背水の陣で職業作家の道を歩み始めた作者の決意と不安の入り混じる心境が、ひしひしと感じられます。

 

 この後も、村上作品は長編と短編を交互に発表するスタイルをとりながら、作品相互の関係を読み取る、という新しい文学の楽しみ方を提示していきます。きっとボクと同じように、自分の境遇と重ね合わせながら、熱烈な読者になった方も多いのではないでしょうか。