村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【バート・バカラックはお好き?】「カンガルー日和」より

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 通信教育の文通をめぐるほのぼのとしたエピソードは、いつしかあらぬ方向にそれていきます。息をつめて読み進んだその先で作者が明かした一つの《テーマ》。そこから小説というものをどんな風に読めばよいのか? について少し考えてみました。

 

【要旨】

  • 今から10年前に僕は「ペン・ソサエティー」という会社でアルバイトをしていた。
  • それを辞めることになった時、指導していた会員の既婚女性から招待を受けた。
  • 会の規則に反していたが、何ものも22歳の青年の好奇心を押しとどめることはできない。

 

【手紙のハレムの中で】

22歳のころの「僕」は、一通2千円の契約で手紙の添削のアルバイトをしていました。手紙のハレムの中で過ごした「僕」の屈託ないやり取りが紹介されています。

 

我々はコーヒーを飲んでしまうと、バート・バカラックのレコードを聴きながら身の上話をした。とはいっても僕には身の上話というほどのものはないから、ほとんど彼女がしゃべった。学生時代は作家になりたかったの、と彼女は言った。彼女はフランソワーズ・サガンのファンで、僕にサガンの話をしてくれた。

 

会員の一人である32歳の既婚女性は「僕」を昼食に招待してくれました。文学を愛好する者同志の親密な時間が流れます。

 

時計が五時を打った時、そろそろ失礼しなくちゃと僕は言った。「御主人が帰って来る前に夕食の仕度をしなくちゃいけないんでしょ?」

「主人はとてもとても遅いの」と彼女は頬杖をついたまま言った。「いつも真夜中にしか帰らないわ」

 

さて、物語の最後にこの作品のテーマが開示されたとき、ボクは思わず作者の真意を疑いました。そんな訳はないと何度も読み返し、自分事に置き換えて考え、文章の細部を吟味して得た結論がコレ。

 

        確かにこの作品のテーマはそれに間違いない!

 

その結論を受け入れてしまうと、なんだか最初からボクはそのことを知っていたような気がします。そして、なぜかそのことに一抹の寂しさをぬぐえません。

 

 【テーマ主義】

 テーブルやお皿は、その《本質》を構想した人の手によって作られた《実存》なので、『本質が実存に先立つ』と言い表すことが出来ます。その一方で、人は《実存》ではありますが、自ら考え行動して《本質》を作り出さなければならないことから『実存が本質に先立つ』という逆転が起こります。

 

 以上の考察から哲学者のサルトルは『人間は自らつくるところのもの以外の何ものでもない』と結論付けました。これは人の倫理的な意思決定の重要性を説明できる考え方ではありますが、テーブルやお皿が持つような有用性が人の価値を左右する、という負のイメージもつきまといます。

 

 このような《実存主義》の考え方は、文学における《テーマ主義》の概念とよく似ています。文学にも《実存=テクスト》と《本質=テーマ》があり、後者を絶対的なものと見なすのが《テーマ主義》です。しかし、その考え方は文学をつまらないものにしてしまっている気がしてなりません。

 

    作品のテーマを追求することにどれほどの意味があるのか?

    作品の解釈を自由に楽しむことはどこまで許されるのか?

 

 今のボクには、その答えを出すことが出来ないでいます。