本作には、ロング・バージョンとショート・バージョンが存在します。ショート・バージョン『めくらやなぎと、眠る女』は、神戸淡路大震災の翌年に神戸で「朗読会」に使うために後日書き直されることになります。
【あらすじ】
- 実家でぼんやりすごしていた僕は、叔母に頼まれ耳の不自由ないとこに付き添って病院に向かった。
- 診察を受けるいとこを待つ間、高校時代の友人と彼のガール・フレンドを見舞ったときのことを思い出す。
- 帰りのバスが来るのを待ちながら僕は想像する。「こうしているあいだにも、彼らはいとこの薄桃色の肉の中にもぐりこみ、汁をすすり、脳の中に卵を産み続けているのだ。」
『いま何分?』
「いま何分?」といとこが訊ねた。
「26分」と僕は言った。
「バスは何分に来るの?」
「31分」と僕は答えた。彼はしばらく黙った。そのあいだ僕は煙草の残りを吸った。
冒頭から、「僕」と「いとこ」の切れ目なく展開していく意識や行動が描かれます。「現在」という狭い時間をさらに切り詰めて、過去も未来もぎりぎりまで削ぎ落した時間の感覚。それは不安や葛藤を抱える人の心理に似ています。
『彼女が書き上げた長い詩』
そう、彼女はその夏、めくらやなぎについての長い詩を書いていて、その筋を我々に説明してくれていたのだ。それは彼女にとっての唯一の夏休みの宿題だった。彼女はある夜見た夢をもとにしてそのストーリーを作り上げ、ベットの上で一週間かけて長い詩を書きあげた。
中盤では、周りの景色に触発された「僕」の脳裏に、過去の記憶がよみがえってきます。その記憶の行きついた先は、病院のベッドで彼女が書きあげた奇妙な《物語》。過去と現在と未来の動的な時間が動き始めます。
『沈黙の中で』
僕はその沈黙の中で、いとこの耳の中に巣食っているのかもしれない無数の微小な蠅のことを考えてみた。六本の足にべっとりと花粉をつけていとこの耳に入りこみ、その中でやわらかな肉をむさぼり食っている蠅のことをだ。
終盤の帰りのバスを待つ間、「いとこ」は心の内にある不安を打ちあけ「僕」は良き理解者として耳を傾けます。そのとき「僕」に浮かび上がったのは、いま自分が語るべき物語。その新しい《物語》に向かって、二人は肩を並べてバスを待ちます。
【ナラティブ(物語)】
クライエント(患者)に自由に記憶を語らせることで、症状の改善をもたらす精神療法を「ナラティブ・セラピー」と言います。この療法は家庭内暴力や性的虐待のPTSD治療、各種依存症の自助会において飛躍的な効果を遂げていると云われています。
そもそも、ボクたちは過去の体験を語るときに《ナラティブ(物語)》として語り、《ナラティブ》として他者の経験を理解し、《ナラティブ》の主人公を演じることで人生を意味づけています。物語の語り手は他者の語る《ナラティブ》に耳を傾け、癒しの物語として昇華することで大切な何かを見出しているように感じられます。
本作を読み終えたあとで、僕はこんなことを考えました。
外部の刺激に反応するだけの生き方では、人生は枯渇していくのかも知れない
私達は芸能界や政治家のスキャンダルに好奇心の目を向け、新しいゲームソフトの発売にそわそわし、ワールドカップやオリンピックが開催されると睡眠不足になりながらテレビに見入る。そうしたものに目を奪われながら、自分にとって大切な何かを見失ってしまっていないでしょうか。時には、自分の内に沸き起こる物語に、あるいは他者の語る物語に、じっくりと耳を傾けてみてはいかがでしょうか。