村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【双子と沈んだ大陸】「パン屋再襲撃」より

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 本作は『1973年のピンボール』という中編のスピンオフ作品です。村上作品になじみのない人のために少しだけ解説しておきます。

 

[解説:1973年のピンボール] 

 『1973年のピンボール』は208と209のトレーナーを着た双子と主人公のひと夏の日々が描かれた作品です。双子に促されて主人公の『僕』が壊れた旧式の配電盤を葬るという場面が登場しますが、そこには『僕』の抱える閉塞感とその原因である過去(の文学)への訣別が寓話的に描かれています。

 

《あらすじ》
茶店で手にとった写真雑誌のに双子の写真が載っているのを見つけた。双子と新しい宿主の姿は今の僕にとっては通り過ぎてしまった過去の焼き写しにすぎない。それでもなぜだか気になって仕方がない僕は、彼女たちの登場の意味を問い始める。

 

『あれから半年後』

その写真の中の双子は例のーーー僕と一緒に暮らしていたときにいつも着ていたーーー「208」と「209」という番号のついた揃いの安物のトレーナー・シャツではなく、もっときちんとしたシックな恰好をしていた。一人はニットのワンピースを着て、一人はざっくりとしたコットンのジャケットのようなものを着ていた。髪は以前よりずいぶん長くのびていたし、目のまわりには薄く化粧さえしていた。

 

 写真の中の双子は『僕』の知っていた頃とは少し様子が違います。改めて1974年4月の曇った夕暮の街を見渡すと、そこには過去との繋がりが消えた妙に静かな世界が広がっていました。

 

『沈んだ大陸』

僕は天井を眺めながら海に沈んでしまった古代の伝説の大陸のことを思った。どうしてそんなもののことを考えついたのか、僕にはよくわからない。たぶん十一月の冷たい雨の降る夜に傘を持っていなかったせいだろう。あるいは明け方の夢の冷ややかさを残したままの手で名前も知らない女の体をーーーどんな体だったかも思い出せないーーー抱いたせいだろう。

 

 ホテルで見知らぬ娼婦に『僕』は語りかけます。かつて双子といっしょに見つけ出した再生の物語が近代的システムの隙間に埋もれてしまったように思えると。でもそれは『きっと疲れてるせいだ』とはぐらかされてしまいます。

 

  『僕』が見た1974年の景色への違和感は、ただの思い過ごしなのでしょうか?

  

【差異と交換の戯れ】

 ボードリヤールは、模倣を意味する《シミュラークル》という概念によって、大量生産社会の意味を読み解いています。模倣による差異が価値を生み出す現代社会では、労働や生産をはじめ、消費、サービスそしてコミュニケーションさえ取り換え可能となります。すべてが交換可能な模倣となったその先は「真と偽」「虚と実」の境界も無くなり、現実という概念そのものが溶解してしまうと彼は警告しました。

 

 本作は、現代社会に起こったパラダイムシフトを《沈んだ大陸》というイメージに託して、その喪失感を描いています。『僕』が1974年の世界に見たのは、ボードリヤールが解き明かしたような大量生産社会が時代をすっぽりと覆った姿でした。そんな時代に、いったいどんな文学の言葉が通用するというのでしょうか?

 

 村上作品はこのあと《シミュラークル化した80年代》を華麗にダンス・ステップを踏みながらすり抜けてていくのですが、それについてはまた別の機会に。