村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ダンス・ダンス・ダンス(下)】

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【オドルンダヨ、オンガクノツヅクカギリ】

 唐突ですが、曹洞宗坐禅は《只管打坐(シカンタザ)》とも呼ばれ、ただひたすらに坐るとされます。何かの目的の手段にしてみたり、見返りを求めたりしないで坐り続けるというのは、なかなか難しいことのようです。

 

 『音楽の続く限り・意味なんて考えず・踊るんだよ』という羊男の言葉は、この《只管打坐》によく似ています。主人公の『僕』は、浮世離れした映画スターや、奇妙な拡大家族との交流を続けながら、そこに私利私欲や自意識を持ち込まず、ひたむきに彼らと向き合い、次々と新たな関係性の中に身を投じていくことで現代社会の病理を浮かび上がらせていきます。

 

 そうした『僕』の無為の姿を追いながら、並々ならぬページ数をかけて見守る忍耐の読書になります。今回のブログも焦らず急がず、無事に結論にたどり着くことを願いながらご紹介していきます(^^)/

 

【ディック・ノースの人生】

「僕にはわかったんです。これは一生に一度のことなんだって。こういう巡り合いというのは一生に一度しかないことなんだって。そういうのってね、わかるんですよ、ちゃんと。で、僕は思いました。この人と一緒になったらたぶん僕はいつか後悔することになるだろう。でも一緒にならなかったら、僕の存在そのものが意味を失うことになるって。」 

 

 ディック・ノースは人妻のアメに恋をして、家庭も仕事も何もかもを投げ捨ててしまいました。 このような激しい恋愛感情は、周りの人間から見れば馬鹿げたものに映るかも知れませんが、その生き方には、人生を意味づけるものが、常識の造詣や徳の高さばかりではないということを考えさせられます。

 

【五反田君の人生】

「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ。(中略)無意識的な行為なんだ。でもその感触だけは覚えている。そういう感触のひとつひとつが僕の両手にしっかりとしみついている。」 

 

 おそらく離人症と思われる五反田君は、血なまぐさい残虐行為にしか現実味を感じないことを告白します。遺伝的な要因を含むこのような性向を生かしていける道は限られたものでしょう。人生の崩壊を目前にしながらも、独自の規範と美学を維持しようとする彼の姿に『僕』は次第に心を寄せていきます。

 

現代社会の病】

 ディック・ノースの不倫恋愛や五反田君の異常行動は、日常感覚からすれば奇怪なものに映るかもしれません。しかしそれは、不倫ドラマや猟奇的ミステリーなどを嗜好するボクたちの情緒が求めているものと何ら変わりません。むしろ問題は、昨今の社会がこのような負の感情の受け皿を持ち得ないために、「正しくない」とされる者を見つけ出しては、歯止めの利かないスケープゴートを繰り返す負の連鎖ではないでしょうか。

 

 臨床心理学者の河合隼雄は次のように語っています。

おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる。(『影の現象学』より)

 

【心の世界の拡張】

 作者は物語の中で《羊男の部屋》と《白骨死体の部屋》という二つの不思議な空間を設けました。この空間を介して見えてくるものがあります。

 

 それは、世間的な見方がどうであれ、取り換えの利かない至上なものに繋がることが、人生の価値を意味付けていること。死と向き合う事で、人生の崩壊の途上にあったとしても、人は固有の可能性に向って生きることが出来るということ。そのどちらもが、ボクたちの認識を正と負の両方向へと押し広げます。

 

 このような文学の想像力によって《心の世界の拡張》を感じられるなら、ボクたちはどんな時も偽りの無い本当の自分として十全に生きることができるのかもしれません。長いページ数を乗り越えた勢いで少し誇大な感想になってしまいましたが。m(__)m