村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【失われた三時間】(マイ・ロスト・シティーより)

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 1930年代後半に入ると、フィッツジェラルドは借金返済と娘の学費稼ぎのために、映画会社と脚本家契約をしてハリウッドに移住しています。療養が続く妻のゼルダとは疎遠になる一方で、シーラ・グレアムという女性と運命的な出会いをしています。その後彼女の庇護の下で、小説家として息を吹き返していきます。

 

《あらすじ》
ナルド・ブラントは飛行機の乗り継ぎで久しぶりに故郷の町に降り立つ。やっかいな仕事を片づけた解放感から、彼は20年前に想いを寄せていた女性に会ってみようと考えた。電話帳から探し当てた彼女は彼のことを覚えていると言い、突然の来訪にもかかわらず歓迎してくれた。思い出のなかの憧れの少女は美しい人妻に変わっていた。

 

『もう一人の自分』

その目もくらむ五分のあいだ、彼は意識を引き裂かれたもののように二つの世界を同時に生きた。彼は十二歳の少年であり、また同時に三十二歳の大人でもあった。そしてその二つは離れがたく、手のほどこせないほど混じりあっていた。

 

甘い再会に酔いながら古い一枚の写真を見つめているうちに、ある事実が判明して親密な雰囲気は一転します。男に残された次の選択肢は、心の中に蘇ってしまった過去の自分を葬り去ることのみ。

 

【信仰の告白】

 人を魅了する「喜ばしきもの」「美しきもの」は、時に人の運命を揺さぶります。そこで人はふいに「もう一人の自分」に出会い、場合によっては身を引き裂かれるような選択を迫られる。そんな人生の局面では、地位も、名誉も、知識も、教養も、そして崇高な倫理観さえも、何の役にも立ちはしないということを、フィッツジェラルドは物語を通じて証明しようとしているように見えます。

 

 ここに来て、作家の目指しているものが幸せや理想ではないということが、ようやく分かった気がします。訳者の村上春樹はそれについて『信仰の告白』であると語っています。しかし、フィッツジェラルドが信じ続けたものの先には《神をも人をも恐れぬ虚無》が出現するのですが、それについては次回に(^^;)