村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【アンダーグラウンド】

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 本書は地下鉄サリン事件被害者へのインタビューで構成されたノンフィクションです。60人の証言で浮かび上がるのは、事件現場での人々の良心的な行為や地下鉄職員たちの献身的な対応だけでなく、営団地下鉄消防庁警察庁上層部の愚鈍な姿勢やミスの隠蔽、責任逃れなどの嘆かわしい実態。この突然の荒れ狂う暴力に対して私たちの社会がいかに無防備であったかということを本書は明らかにしています。

 

《本書の特徴》
ンタビュー記事の取材方法はマスコミ報道で発表された名前をピックアップし「誰か地下鉄サリンの被害に遭った人を知りませんか?」と尋ねてまわるやり方で、結果的に村上とリサーチャーと編集者の間の結束は固まり、一人ひとりの証言は一層大事に扱われた。証言者の多くは実名を公表しており、インタビュー後の訂正・削除も綿密に行われ、自発的かつありのままの証言が記録されている。

 

『千代田線 A725K 豊田利明(当時52歳)の証言』

 最初にひとつ言っておきたいのだが、私はこのことをできればなるべく喋りたくないんだ。私はその事件のあった前の夜、亡くなった高橋さんと一緒に駅に泊まり込んでいるんです。私は当日千代田線の当務助役という責任者として仕事をやってまして、結局そのときに二人の同僚が死んでしまったんです。

 

田さんは山形県出身で、営団地下鉄社員として34年間務めてきた。言葉には少し山形の訛りがうかがえる。良き職業人である彼と話をしているあいだ、村上の頭には《職業倫理》という言葉がずっと浮かんでいたという。

 

【魅力ある聞き手】

 このインタビューでは、村上自身が魅力ある聞き手になることで、証言者の鮮やかな人物像が浮かび上がらせます。そして、700ページにおよぶ分量にもかかわらず、まるで千夜一夜物語さながらに一気に読み進めることができます。

 

 改めて取材者と証言者の関係を俯瞰すると、小説家と読者の関係によく似ています。例えば作品を理解する読者がいなければ、小説家は作品を世に問うことは出来ません。良き作品は良き読者によって世に生み出される。本書においては証言そのものが良き作品であり、村上は良き読者の役回りに徹しているように感じられます。そして、事実に勝る物語は存在しないことが、本書を通じてご理解いただけるに違いありません。

 

 この後のオウム信者にインタビューした『アンダーグラウンド2 約束された場所で』では、村上春樹は聞き手に徹するばかりでなく相手の話に口をはさんで議論する場面も登場します。それは彼らの語る核心部が、別の誰かに自我を譲り渡すことで刷り込まれた自己疎外の言葉だからなのですが、それについては次回取り上げてみます。