今回から短編小説集『レキシントンの幽霊』に収録された七つの作品を順次ご紹介します。本書は「潜在意識へのアプローチ」というテーマが様々な形で描かれた作品集です。
村上作品では『私たちが本当に知りたいことは意識の奥底に潜んでいる』というモチーフが繰り返し使われます。それは、恐怖や暴力のバイアスを乗り越えた先にある場合もあれば、何かの拍子にフッとたどり着くこともあります。不可解な要素もあるのですが、単にその謎を解くのではなく、自分の中の魂の存在を感じとることがなによりも大切です。というわけで、まずは表題作からご紹介します。
《あらすじ》
僕はマサチューセッツ州に二年間住んでいたころ、建築家の友人宅で一週間ほど留守番をしていたことがある。レキシントンに建つ由緒ある古い屋敷で過ごす初日の深夜に僕は目覚めた。客間の閉ざされた扉の向こうでにぎやかなパーティーを繰り広げている様子が聞こえてきたのだ。しばらくして僕は、それが生きている人間たちのものではないことを確信する。
『あれは幽霊なんだ』
------あれは幽霊なんだ。
居間に集まって音楽を聴き、談笑しているのは現実の人々ではないのだ。両腕の肌がざらりと冷えた。頭の中で何かが大きく揺れるような感触があった。まるでまわりの位相がずれるみたいに気圧が変化し、ぶううんという軽い耳鳴りがした。
不思議な真夜中のパーティーが催されたのは最初の日の夜だけだった。僕はそれからほとんど毎日のように真夜中に目を覚まし、息をひそめて暗闇の中で耳を澄ませる。もう一度あの奇妙なパーティーに巡り合うことを期待しながら。僕は怖さを越えた何かをそこに感じていた。
【ゲニウス・ロキ(地霊)】
五・一五事件や二・二六事件の現場でもある首相公邸には幽霊が出るとウワサされています。公邸に限らず歴史・文化の蓄積によって生み出される際立った雰囲気を持つ土地や建物には、誰しも神秘的なパワーを感じるのではないでしょうか。
建築家のクリスチャン・ノルベルグ=シュルツは、土地柄、歴史、文化が作り出す特有の風情を《ゲニウス・ロキ(地霊)》と呼び、このような人と環境の相互作用によって生み出される実存的な建築空間の価値を説いています。
本書の中で語り手の「僕」がいささかオールドマネーを感じさせる古い屋敷のなかで幽霊の存在を感じ、そこに『怖さを越えた何かを感じた』というのは、私にはとても自然なことのように思えます。
【別のかたちをしたほんとうの世界】
後日、屋敷の主人から聞いたエピソードには、眠りが〈あちら側の世界〉への入り口になっていることが仄めかされています。〈あちら側の世界〉に心が強く引き寄せられることで〈こちら側の世界(=現実の世界)〉の記憶が遠ざかっていく、という不思議な感覚がこの作品のキモです。
屋敷の主人が語る次のような印象深いセリフがあります。
「僕の言っていることはわかるかな?つまりある種のものごとは、別のかたちをとるんだ。それは別のかたちをとらずにはいられないんだ」
これを『ある種のものごと(=あちら側の世界)』こそが《ほんとうの世界》なのであって、それが現実の世界に現れたときには『別のかたち(=メタファー)』をとらざるを得ない、 と読み替えることも出来るのではないでしょうか。
さて、次回からはそのような『メタファー』の形をとった《ほんとうの世界》に迫っていきたいと思います。どうかご期待ください(^^)/