先にご紹介した短篇『レキシントンの幽霊』は、作者の4年間のアメリカ生活を締めくくる作品でした。年代物の家具や価値あるレコードが大切に保存された屋敷で、愛した人の面影を偲んで暮らす似たもの親子の話には、素朴な美意識や文化人特有の品性が作り出す孤独が描かれていました。
さて、今回ご紹介する作品は、舞台を日本に移して妻と父親を亡くした男が登場します。しかし彼の抱える孤独は、レキシントンの屋敷の住人とは対照的です。私にはこの作品が短編集のなかで、最も重要な位置を占めているように感じます。
《あらすじ》
トロンボーン奏者、滝谷省三郎のひとり息子のトニー滝谷は幼い頃からずっと孤独だった。イラストレーターとして成功した彼はひとりの女性に恋をする。結婚し、幸せな生活を送るも、突然の事故が妻を奪っていった。彼は妻にそっくりな女性をアシスタントに雇う。妻が遺した服を彼女に着て貰い、少しずつ妻の死に慣れようと考えたのだ。しかし、何百着もの同じサイズの美しい服を前にして、女は目に涙を浮かべる。
『全ては終ってしまった』
彼は今では自分がそんな服を憎んでいることにふと気づいた。彼は壁にもたれ、腕を組んで目を閉じた。孤独が生暖かい闇の汁のようにふたたび彼を浸した。これはもうみんな終わってしまったことなのだ、と彼は思った。もう何をしたところで、全ては終ってしまったのだ。
妻の残した服をトニーはすべて売り払った。年月がたつにつれて、妻の服の色や匂いをはじめ、かつて抱いた鮮やかな感情さえも彼の記憶から消え去った。からっぽになった衣装室に残されたのは、かつて存在したものが残していった欠落感と、女が流した涙の残像だけだった。
【使いみちのない風景】
私たちの意識にぼんやりと浮かぶ記憶の残像について、村上春樹は次のように語っています。
たぶんそれが僕らの中にある「使い道のない風景」の意味なのだと思う。それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景にーーーおそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景にーーー結びついているのだ。(『使いみちのない風景』より)
物語に描かれた『父の奏でるトロンボーンの音色』や『妻の服を見て泣く女』といった記憶は、現実的な意味を欠いているために「使いみちがない」にもかかわらず、主人公の意識にしっかりと残ります。
また、私たち読者は『戦時下の中国で死の淵に立った父の人生』や『買い物依存症から抜け出せない妻の苦しみ』と主人公の記憶がどのように結びつくのか、明確な因果関係を読み解くことはできません。
ただ、それをカミュのように「不条理」とか「虚無の闇」といった概念をことさら取り上げなくても、《使いみちのない風景》として私たち読者はごく自然に受け止めているのではないでしょうか。
こうした「現実的な根拠を欠きながら意識の深層部で受容する」読み方が、日本人の感性に特有なものなのか私には分かりません。でもともかく、村上作品は本作で明らかに日本回帰へと向かい、こうした感性に訴えかける作品を追求しています。
ちなみに、本作は市川準監督によって映画化されました。イッセー尾形と宮沢りえの二人芝居によって孤独の叙事詩が映像化されているのですが、ページをめくるような場面転回や、心地よい吹き抜けの背景映像などのアイデアが奏功しています。また、原作に無い《希望と再生》がやや遠慮がちに付け加えられているのが印象的でした。