村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【真実の愛】(『犬の人生』より)

 著者のマーク・ストランドは「合衆国桂冠詩人*1」の称号を受けていて、アメリカの詩を語るうえで彼の作品は欠かすことができないと言われています。詩以外にも児童文学作家、翻訳者、編者、評論家など多彩な顔を持ちます。本書はそのなかから「ザ・ニューヨーカー」等に寄稿された短篇を一冊にまとめたものです。

 

 さて、今回ご紹介する作品にはバツ5の男性が登場します。妻以外の女性たちと繰り広げるアバンチュール。前回と同様に「ちょっと変な」物語の行方をたどっていきます。

 

《あらすじ》
はこれまでに五度の結婚と六度の妻以外の女性との恋愛を重ねてきた。私の愛は常に《真実の愛》であるが故に、前代未聞の苦悩と輝かしい喜びを呼び起こした。一度目はマチュピチュに行った時のこと。「神聖広場」で探検家の洋装に身を固めた魅力的な女性に出会った私は、彼女に誘われるままにワイナピチュまでの険しい山登りに同行した。

 

『私は恋に落ちた』

光景はどんどん壮大なものになっていたが、私の視線は前を行く女の完璧なかたちをしたお尻と、脚の上に釘付けになっていた。ぶかぶかの半ズボンと巻ゲートルにかたちを歪められていたにもかかわらず、その脚はすらりと長かった。私は恋に落ちた。

 

日後、期待に胸を膨らませながら、彼女が泊まっているリマのペンションを訪れた。しかし、別の男に寄り添って歩く彼女を見かけた私は、黙ってその地を立ち去る。その後も、ニューヨークの地下鉄で、オーストラリアのパーティーで、ベオグラードの列車旅の途中で、時と場所を選ばず運命的な出会いを重ね、繰り返し、繰り返し、私は恋に落ちた。

 

【自由恋愛主義?】

 《自由恋愛主義》の起源は「女性の意思に反する結婚」や「宗教や親同士の策略結婚」に対する異議申し立てに始まると言われています。結婚は戦争を支える資本主義文化の象徴だと警告するヒッピー・ムーブメントもありました。昨今では、フェミニズムLGBT意識の高まりとともに「もっと自由に楽しく生きたい」という心理がこのような考えを支持しているようです。

 

 いずれにせよ、成人した大人同士の自由恋愛は正当なものであり、感情的であろうが性的であろうが、何の制約もなく尊重されるべきだという主張には説得力があります。果たして、妻以外の女性とのアバンチュールを夢見るこの男性の《真実の愛》とは、このような《自由恋愛主義》から生じたものなのでしょうか?

 

 改めて本作を振り返ると、みじめな破局を繰り返す主人公の単純な行動は、自由恋愛とはほど遠いものです。女性にフラれた末に膨らませる妄想は無益で、不倫と呼べる代物ですらありません。そもそも彼は結婚制度に揺るぎない信頼をおいていて、五度の離婚にも屈することなく次のお相手を探しているお気楽ぶりです。

 

 恋愛から醒めた場所にいる読者は、きっと嫌悪と侮蔑の思いを持ちながら語り手の恋物語を読み進めることでしょう。私も最初はそうでした。しかしそのなかに、心の琴線に触れる一節に出会ったとしたら、自分自身の偽り無い姿をそこに投影しているのだと正直に認めませんか。私は最終的に次のような結論に至りました。

 

  人は誰しも日々の情緒の糧を《真実の愛》なるものに求めて生きている

 

 それは《何々主義》などといった理屈を必要としない絶対的なものであり、孤独や不安を越えて人を狂気に引き込む甘美な誘惑です。これぞ《真実の愛》を言い表した名調子の言葉を思い出したので最後に引用しておきます。

 

「あー、いい女だな、と思う。その次には話をしたいなあ、と思う。ね。その次にはもうちょっと長くそばにいたいなあ、と思う。そのうち、こう、なんか気分がやわらかーくなってさ、あーもうこの人を幸せにしたいなあ、って思う。この人のためだったら命なんていらない、もう死んじゃってもいい、そう思う。それが愛ってもんじゃないかい?」(『男はつらいよ葛飾立志篇』より)

*1:詩人としての資質と活躍が評価されて国家から選ばれるもので、公的な詩作や詩文化普及などの任務が課せられる。