本作には自意識過剰な青年の破天荒なエピソードが記されています。そういえばかつての私の仲間内でも、さまざまな武勇伝が飛び交ったものですが、改めて振り返ればどれもこれもコケ脅し('ω') それはさておき、今回も私たちの想像力の斜め上を行くマーク・ストランドの作品をご紹介します。
《あらすじ》
僕の友だち、ジョージ・ウーリーの話。彼はもう死んでしまっている。だからあなたが僕の声の中に聞き取るのは、ウーリーの声の影だ。彼の人生に比べれば、ほかの友人たちの人生なんて、みんな核心を欠いて見える。世間は彼の名を知らなかったし、彼にチャンスを与えなかったし、彼は認められぬままに墓に葬られてしまった。
『元気いっぱいの男』
ウーリーは元気いっぱいの男だった。スポーツマンであり、ゲームの考案者であり、詩人であり、疲れを知らぬ恋人であった。彼はまるで有名人みたいに足どりも軽く動き回った。自分の行く手には、途切れることなく赤いカーペットが敷かれていくのだ、というように。
ウーリーは皆の前で詩を披露し、一騎打ちのテニス試合に挑み、謎の「死神ゲーム」を考案した。しかし、どことなく見当外れで、傍から見れば気まずい空気が漂うものばかり。つまり、若さゆえのイタイ男。それがワイルドでワィヤード(変わり者)でワンダーなウーリー!!
【モラトリアム期】
《モラトリアム》の本来の意味は非常時における「支払い猶予期間」です。心理学者のエリクソンは、社会的責任を一時的に猶予されている青年期をさす概念として提案しました。生きがいや働きがいを発見するための準備期間として、海外では広く定着していますが、新卒採用が主流である我が国では、否定的なイメージを持つ人が多いようです。
本作はモラトリアム期の若者に特徴的な、社会性を持たない未成熟な人格を寓話的に描いています。その意味でウーリーという人格を抹殺したのは、取りも直さずこの物語の語り手である「僕」自身であった、という寓意を読み取ることも出来ます。
人は誰しも自分探しで出会った自己の影を切り離して、大人への道を歩み始める
アメリカでは学生や知識人を中心に抗議集会が頻繁に行われ、大規模なデモ行動に発展することも少なくありません。その内容の是非はともかく「抗議する権利」を行使することは民主主義の醸成に必要なプロセスであると見なされています。アメリカ社会全体で若者たちの成長を辛抱強く見守っているのです。
ちなみに我が国では、高校生によるデモ参加は学校への届け出が義務付けられます。これでは18歳有権者の社会参加を望むことなど、そもそも無理な話でしょう(-_-;)