村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑥生きること】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 今回ご紹介する作品はグレイス・ペイリー作品を特徴づけている「フェイスもの」です。意味深なタイトルなのでじっくりと読み始めたのですが、そうした思いは作者の策略によってあっけなくかわされました。文学理論も文芸トレンドもどこ吹く風。ペイリーが描く独自の世界観にお付き合いください。

 

《あらすじ》
リスマスの三週間後にエレンが死んだ。これまで私(フェイス)とエレンは、威張りくさった亭主や騒ぎまわる子どもたちを置き去りにしながらさまざまな政治的活動に身を投じてきた。葬儀の場では、気丈に振る舞う彼女の息子の姿があった。

 

『養子にしてもいいのよ』

「でもうちで引き取って養子にしてもいいのよ、どう?」と私は訊いてみた。彼がもしそうしてほしいと言ったら、そのお金やら部屋やらおやすみの挨拶がのびる十分の時間やらはいったいどこから工面すればいいのかしらと思い悩みつつ。

 

は丁重に「私」の申し出を断った。その後の『エレンもあなたのことそれは誇りに思ったでしょうに』という言葉に対して彼が放った『死んだらもう何も思わないよ、フェイス』というセリフが「私」の中の欺瞞を揺さぶる。

 

【不条理文学】

 《不条理文学》とは、一般的に「非合理的な出来事に本質的な原因や意味などない」あるいは「どのように不条理に対処していくべきか」というテーマで描かれた作品を指しています。本作も友人の死を巡って乾いた文章が綴られた《不条理文学》に属する作品に感じられます。

 

 例えばカミュは、ペストという自然の摂理に対峙したときに浮かび上がる人間の不条理について語りました。カフカの場合は、理由の分からないまま告訴され、有罪の判決を受けた主人公が素直にそれを受け入れる異常性によって生きることの非合理さを描きました。どちらも不条理を題材にした人間性の探求がテーマになっています。

 

 さて、本作も「生きること」に根差した不条理文学と呼べるのでしょうか? エレンの死の理由は最後まで明かされませんし、フェイスは出血しつづける謎の病に侵されます。医者は『永久に出血することはありません。血が出つくすか、どこかで止まるか、どちらかです』という冗談のような診断を下しますが、結局フェイスの体はクリスマスが過ぎ去るとけろりと回復して、エレンの葬儀に立ち会っています。

 

 ただ、私は本作を何度も読み返しているうちに、主人公である主婦のまわりで起こる出来事には不可解はあれど、不条理は存在しないことに気が付きました。そもそもこの物語の違和感は、語り手の女性の矛盾にみちた認知にこそあるようです。こうした《内的不条理》を引き起こした原因が、エレンの死を悼む気持ちであることは間違いありません。

 

 生身の体につきまとう訳の分からないものごと。それは論理的な説明に回収されない肉体と精神のズレを引き起こす。今の私の頭のなかには様々な考えと感情が溢れ出かかっているのですが、整理がついたら別の機会にご報告します。今回はここまで。