村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑯移民の話】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 本作には男女の会話のすれ違いが描かれ、いかにもグレイス・ペイリーらしい政治的な発言が飛び交います。前回⑮では「他者との会話」が人の理性を良い方向に導くと書いたものの、保守とリベラルの対立が深刻化するアメリカ社会は、会話そのものが困難を極めています。本作を通じてその解決の糸口を少しだけ考えてみました。

 

《あらすじ》
ャックの父はポーランドの小さな町からやってきた。アメリカに来た理由は、軍隊への入隊か刑務所行きという選択を回避するため、そして子供たちを戦いやユダヤ人虐殺から守るため。しかし直後にポーランドを飢餓が襲い、妻をアメリカへ呼び寄せた時には息子たちの命は失われていた。ジャックの幼い頃の記憶には、父と母の奇妙な風景が刻まれている。

 

『ベビー・ベットの中の父親』

なあ、僕の話をちゃんと聞いてくれ、と彼は言った。いいかい、ある日僕は目を覚まして、父親がベビー・ベットの中で寝ているのを目にした。 どうしてまた、と私は言った。 母親が彼にそこで寝なさいと言ったからさ。

 

は父にある種の罪の意識を味合わせようとしてそうした行為におよんだ。ジャックとは異なる境遇を送ってきた「私」にはそれが理解出来ない。話題を独自の論理にすり替えようとする、彼は激しく拒絶する。そして語り始めた。父と母の人生を飲み込んだ飢餓や戦争について。移民二世として生きる苦しみについて。

 

【哲学の終焉】

 哲学者のリチャード・ローティは、究極的な真理を求める近代哲学を批判して《哲学の終焉》を唱えました。「独断的な哲学観を手放し、現実に即したよりよい考え方を求める対話を大事にしよう」と彼は説きます。

 

 私たちはそれぞれ異なる歴史的・文化的背景のなかで生活しています。文化が違えば物事を理解する前提も変わってきます。そのことを考慮せずに、全ての人に共通の真理を求めるのはそもそも無理な話です。とりわけ公的な場では独断的な哲学を持ち出すことは控え、客観的な議論をすべきだとローティは提案しています。

 

 日々報じられる飢餓や戦火に追われて流浪する人々のニュース。目の前で子供が餓死したり、戦争で無垢な命が奪われていく世界で、机上の哲学など戯言に過ぎません。他人の苦しみや残酷な境遇に思いを寄せるには、何よりもまず自分の見識が絶対的なものではないという自覚が大切ではないでしょうか。

 

 物語のなかでジャックは両親から受け継いだ「移民の記憶」について語っています。それは生まれながらにアメリカ市民として平穏に生きてきた語り手には、想像することも出来ない過酷な話でした。果たして彼女は独断的な政治哲学を保留して、真のコミュニケーションに踏み込むことが出来たのか、その結論は読者の想像にゆだねられます。

 

 グレイス・ペイリーの作品は、単独で読むと何のことか分からないエピソードが沢山登場します。しかし、順を追って作品を読んでいくと彼女の言いたいことが徐々に見えてきます。そのことを実感しながら続けてきた本書のご紹介も、残すところあと1作になりました。最後までお付き合い下されば幸いです。