J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をご紹介します。大人たちの欺瞞に対して鬱屈した想いをぶつける内容が共感を呼び、不朽の青春小説として世界中で読み継がれているのはご存じの通り。野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』以来、40年ぶりに村上春樹によって現代語訳されました。
《あらすじ》
成績不良で退学処分となったホールデンは、寄宿舎を飛び出し夜のニューヨークへ。そこで出会った女の子たちとの交遊や、ナイトクラブでの放蕩にも気持ちは晴れない。挙句の果てに売春を持ち掛けてきたエレベーター係に殴られ身も心もボロボロ。帰り着いた実家で妹のフィービーにいさめられた彼は、イノセントなその心の内を語り始めた。
『ライ麦畑のキャッチャー』
「で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」
ライ麦畑の崖っぷちで、純粋な心がこぼれ落ちそうになるのを救うのが自分の役割だと語るホールデン。ファンタジーのなかに自分の居場所を見定めても、現実の社会にそれを見出すことは出来そうもありません。
『どしゃ降りの雨の中』
ハンティング帽をかぶっていたおかげで、被害はそれなりに少なくすんだわけだけど、それにしても濡れ鼠になったことはたしかだったね。でもかまやしない。フィービーがぐるぐる回り続けているのを見ているとさ、なんだかやみくもに幸福な気持ちになってきたんだよ。あやうく大声をあげて泣き出してしまうところだった。
どしゃ降りの雨の中でずぶぬれになりながら、回転木馬に乗って無邪気に手を振るフィービーの姿を見守っていたホールデンは突如感極まります。それは思いの丈をすべて語りつくした作者サリンジャー自身の至福の瞬間のようにも感じられます。
【文学における焦土作戦】
物語の舞台となる1950年代のアメリカは、《プラグマティズム》に代表される世相に包まれていました。功利主義や実証主義を中心としたその思想は、ビジネスや政治において人々を啓蒙する一方で、社会の階級化を助長していきます。主人公のホールデンはエリート階級に身を置きながらも、その価値観に激しく反発しています。
ホールデンの反抗の背景には、サリンジャーの従軍体験が関係しているとも言われています。彼はドイツ軍の強烈な反攻を受けたヒュルトゲンの森の戦闘を経て、PTSDの症状を発症しました。本書はそうしたトラウマの分析と治癒が、社会への異議申し立てとなって作品化したとも考えられます。
ストーリーの展開に伴って、俗世間の価値観がホールデンの前に立ちはだかります。行き場を失った恐怖や苛立ち、それを誰にも理解されない絶望や無力感は、子供っぽくて、ナイーブで、脈絡のないおしゃべりによって昇華されます。それはまるで、自らの陣地を焼き払いつつ逃げ道を探る捨て身の戦術に似ています。この作品に対するやわな批判も称賛も、こうした巧みな焦土作戦によって骨抜きにされることでしょう。
2023年最初のブログ投稿は、サリンジャーの神通力にあやかってスタートしてみました。このブログは村上春樹の小説、翻訳、映画、舞台のメジャーなもの・マイナーなものを問わず全てご紹介しようという試みです。まだまだ道半ばではありますが、今年も細々と続けていきたいと思います。どうぞ宜しく<(_ _)>