今回ご紹介するのは、高層マンションの非常階段で姿を消した男の話です。都会の片隅で起きた不思議な話をご紹介します。
《あらすじ》
依頼者は証券トレーダーの夫と品川のマンションの26階に住んでいた。3年前に義母が同じマンションの24階に越してきた。義母は義父の死をきっかけに不安神経症に悩まされていた。その日も、義母の「うまく息ができない」との訴えを聞きつけ、夫は髭も剃らずに非常階段を下りて様子を見に行った。その直後、夫は消息不明となり10日が過ぎた。
『夫はそこで消えてしまった』
夫はそこで消えてしまったのです。煙のように。それ以来まったく音沙汰はありません。24階と26階を結ぶ階段の途中で、痕跡も残さず、私たちの前から姿を消してしまったのです。
『私』はある種の消え方をした人に関心をもっていたので、この捜索依頼を無償で引き受けた。その能力についていささかの自負もある。我慢強さと注意深さ、そして直観。その日から24階と26階を結ぶ階段を往復して、消えた男性の足取りを探索する毎日を送っている。
【解離性同一性障害】
強いストレスやトラウマから自分を守ろうとした結果、一人のなかに二つ以上の別人格が入れ替わり現れるようになる精神疾患を《解離性同一性障害》と言います。かつては「二重人格」や「多重人格障害」という呼び方をされていました。
そもそも解離とは、心の危機から自分の身を守るための自然な防衛反応のひとつですが、ストレスが強くかかる環境が習慣化することで、次第に解離性障害に発展すると考えられます。その深刻度はさまざまで、同一性障害以外に、離人症・解離性健忘・解離性遁走などの症例があります。
姿を消した男性は、不安神経症の母親と傲慢な奥さんと証券トレーダーの激務の三重苦という極度のストレスのなかで無意識下の人格が優勢になり、解離性遁走を引き起こしたと考えられます。もちろん物語としてそう読み取れるというだけで、現実に起こる場合には軽々な推測は差し控えるべきですが。
本作は語りの巧みさが際立っています。例えば、冒頭の依頼者へのヒアリングは、まるで心理カウンセラーになったような(あるいはカウンセリングされているような)錯覚を覚えます。また、閉鎖的な階段を捜索する場面は、クライエントの心理を覗き込んでいるような(あるいは覗き込まれているような)気分になります。
そんな気分に浸りながら、ひとりの少年のイメージが浮かびました。少年は理不尽な現実に不満をもち、夢物語ばかり口にする。自分には特別な才能があり、周りに適応するつもりなどまっぴらごめんだと。大人の義務や責任を押し付けられようものなら、振り払って遁走しようと虎視眈々と・・・。こ、これは私の裏の人格ではないか( ゚Д゚)ガーン!
さて、気を取り直して♡
本作は必ずしも読者に対してスピリチュアルなものを要請する作品ではありません。デフォルメされた人物造形や、階段室で失踪事件を追う荒唐無稽さなど、明らかにファンタジーを楽しむように工夫されています。2005年に『ザ・ニューヨーカー』にも掲載された注目作品。気軽に不思議な感覚を味わってみてはいかがですか。