Amazonより
レイモンド・カーヴァーの短編集『象』に収録された短編から、深夜の静けさの中で交わされる夫婦の会話を描いた作品をご紹介します。
タイトルの「誰かは知らないが、このベッドに寝ていたひと」とは、さっきまでベッドに寝ていた語り手自身を指します。それは、語り手である夫が「これまでとは違う場所に足を踏み入れてしまった」という感覚を意味しています。日常世界のすぐ隣にありながら、普段は考えもしなかった領域に・・・。
『真夜中の電話のベル』
深夜に鳴り響く一本の電話。夫が電話に出ると、ただの間違い電話でした。しかし、その音で目を覚ました妻のアイリスは、さっきまで見ていた夢の話を語り始めました。夫は仕方なく眠ることを諦め、彼女の話に耳を傾けます。
「夢の中でパーティーやってるの」と彼女は言う。「その夢のパーティーの中で僕はどこにいたんだい?」どういうわけだか知らないけれど、だいたいにおいて彼女の夢の中に私は登場しないのだ。
最初はただの夢の話でした。しかし話題は、次第に自分たちの身体の不安へと変わります。そして、死の間際に苦しみ、植物状態にまでなってしまったアイリスの祖父母の話題に至りました。
【生きること・生かされること】
アイリスは、もし自分が祖父母と同じような状態になったら、生命維持装置を止めてほしいと夫に頼みました。「もし私がそうなったら、あなたがプラグを抜いてほしい」と。この言葉は、夫にとって、これまでまったく考えたことのなかった問題を浮かび上がらせます。
本人の意思を無視して生命維持装置のプラグを抜くことは、身体への強制的な介入であり、ある種の暴力といえます。一方で、「もうこれ以上生きることを望まない」という意思を本人が示しているにもかかわらず延命を続けるなら、それは生かすこと自体が暴力になり得ます。
このように、「プラグを抜く」という他者の小さな動作には、「生きること」と「生かされること」を巡るとても難しい問題が横たわっているために、夫はなかなか答えを出すことができません。
【日常の隣にある死の問題】
カーヴァーは、「死」をドラマチックに描いたりはしません。むしろ、電話、夢、夫婦の会話といった何気ない日常の断片から、「死」の問題が姿を現す瞬間を捉えます。本作は、死を間近にしたカーヴァーが、自身の生と他者との関係を自らに問いかけた作品として読むこともできます。
また、アメリカ社会に根付く宗教観や、自分の生き方を自分自身で決めようとする個人主義が本作の根底にあります。夫の決断をためらわせているものが、主人公の優柔不断以上に、そうした価値観に縛られているように見えます。それは、海外作品を読むときに必ずついてまわる違和感ですが、その感じを説明するのは難しく途方に暮れてしまいます。
それでも、時間をかけながら自分の言葉で結論を導き出していく姿は、とてもリアルで胸に迫ります。そして、再び間違い電話がかかってきたときの、何かが吹っ切れたような対応ぶりが、心境の変化を物語っています。
深夜の静けさの中で交わされる小さな会話が、いつの間にか「生と死」という大きなテーマへとつながっていく、カーヴァーらしい一篇でした。