村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑤こういうのはどう?】(『頼むから静かにしてくれⅡ』より)

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 レイモンド・カーヴァーの短編集『頼むから静かにしてくれ』に収録された作品を引き続きご紹介します。

 

 カーヴァーが創作活動をしていた頃は、短篇小説は長篇小説に比べて軽く見られる面がありました。彼自身、生涯を通じて長篇小説を書いていないために、少なからず引け目を感じていたようです。今回はその「長篇小説」がキーワードです。

 

 物語は夫婦が車で国境近くの田舎にやってきた場面から始まります。夫のハリーは自称小説家。ある日、どこか地方に移って暮らしたいと言い出し、妻のエミリーの提案でワシントン州北西部の彼女の生家にやってきました。しかし、彼が求めた理想はそこにはありません。妻に悟られまいとしながらも、次第に絶望感が高まっていきます。

 

『側転』

「これからどうしよう、エミリー」と彼が後ろから声をかけた。彼女は足を止め、彼がその隣にやってきた。「生き続けるだけよ」と彼女は言った。それから頭を振って、微かに微笑んだ。そして彼の腕に触れた。「やれやれ、どうやら私たちにっちもさっちもいかなくなっちゃったみたいね。違う?」

 

リーは軽口をたたきながら暖炉もトイレもなく水道も電気も通っていない空き家を内見した。キッチンに無造作に置かれたマットレス、果樹園の枯れた林檎の木、人気のない森の奥の一軒家。ふと見れば、エミリーは草原で側転をしていた。「ねえ、こういうのはどう?」 逆立ちをしながらやってきて、ごろりと仰向けになって尋ねた「もう決めた?」

 

【決断の時】

 ここに留まるつもりはない。かといって苦境を打開するすべもない。踏ん切りがつかずにいるハリーの様子をみて、エミリーがおどけてはやし立てているひとコマが描かれています。そのとき、煙草に近づけたマッチを持つ彼の手が、ぶるぶると震えだしました。

 

 さて、彼が抱える苦境も、彼の手が震えだした理由も、まるで読者を突き放すように一切の説明はありません。どうやら文章の字面の下に隠れた部分を探るしかなさそうです。へたな深読みは誤読をまねくと言われようが、このままでは終われませんからね。

 

 ハリーが引っ越したいと思い立った箇所を読み返すと、彼はこの三年間、サン・フランシスコに住んでいて、その前はロサンゼルスやシカゴやニューヨークに住んでいたことが分かります。そして、ニューヨークにいるときからずっと最初の長篇小説を書き続け、現在32歳となったという記述から、青年期のすべてを文学に費やしてきたことが伺えます。

 

 都市を転々としながら創作の環境を探してきた彼が辿りついたのは、カナダとの国境を接する森の奥の僻地。この期に及んで彼のなかで価値の転換が起きた、あるいは、先延ばしにして来た決断の時が訪れたのでしょう。きっとそれは「まともな生活」と引き換えの「創作の夢の断念」です。おそらくエミリーも彼の思いを見透かしていたようで、物語のラストを締めくくる彼女のセリフには、温かな気遣いが感じられます。

 

 森の奥の隠遁生活といえば、晩年のサリンジャーを彷彿とさせます。それが望ましい生き方なのかどうか分かりませんが、作家を志す人が抱く理想形の一つなのかもしれません。それから、「長篇小説」について言えば、カーヴァーは別のエッセイのなかで、長編小説自体が苦手で、集中力は続かないし、我慢してまで読むのは嫌だとまで語っています。これはきっと劣等感の裏返しの強がりでしょうね(*´з`)

 

【④鴨】(『頼むから静かにしてくれⅡ』より)

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 本作は初期に発表されたものではありますが、多くの暗示や謎に満ちた難解な作品です。一度読んだだけで何かを掴むことができたなら、あなたは相当の強者か、もしくは私と同じような思い込みの激しい妄想家ですね(^^)/

 

 物語には製材所に勤める男とその妻が登場します。カーヴァー自身、この作品を発表する数年前まで製材所で働いていたそうです。随所に描かれるリアルな生活感は、カーヴァー自身の実体験からきているのかもしれません。

 

『製材所のボスが死んだ夜』

彼は言った。「そろそろここを離れたいんだ。ここにはずいぶんと長くいたよ。生まれた土地に戻って、みんなに会いたい。それともオレゴンあたりに行ってもいい。あそこはいい土地だからね」

 

の日、激しく雨が降る中を製材所へ出掛けた夫は、すぐに帰ってきた。ボスが心臓発作で急死したために仕事ができる雰囲気ではなくなったのだ。その夜、ベッドのなかで彼は妻に切り出した。ここから出ていきたいと。

 

【名状しがたい人生への不安】

 巻末には訳者の村上春樹が解題がついていて、読み解きのヒントになりますので少し引用します。

 

的確にして要を得た描写、生活の生々しさ、名状しがたい人生への不安。ところどころで無骨さが顔をのぞかせるが、そこにはそれなりの奇妙な味わいがある。(『頼むから静かにしてくれ解題』より)

 

 「的確な描写」や「生活の生々しさ」はそれなりに読み取れますが、「人生の不安」はどこに描かれているでしょうか? カーヴァーは本書のなかで「将来を憂えた」「人生に不安を覚えた」などといった心理を一々書いたりはしません。では、何をもって表しているかといえば、それは淡々と描かれる情景描写のなかに忍ばせてあります。

 

 例えば、「強い風にばたばたと舞う洗濯物」「飛び立つまっ黒な鴨たち」といった描写は不吉な未来の予兆を暗示させます。そこに「製材所のボスが死んだ」という余波が加わることで、男の心理劇が動き始めます。

 

 彼は『アメリカ国民愛好詩選』を何気なく手に取り物思いにふける。妻は彼の目が自分に注がれていると勘違いして、いつもの夫婦の会話を繰り広げる。彼も習慣的にその会話に応じる。『そろそろここを離れたいんだ』と口にしたその夜、彼は雨の音に混じって『その音』を聞きます。ここまで無駄な描写は一切ありません。

 

 『その音』が何を意味するのか分かりませんが、私たち読者はこうした情景描写の行間に何かが隠されていることをひしひしと感じとることでしょう。名状しがたい不吉で不安な何かが『その音』となって男の周りを取り囲んでいる異様な情景が心に浮かんできたなら、本作の趣旨は十分に味わえたと言っていいのではないでしょうか。

 

 さて、ここからは私の勝手な妄想です。本作を執筆している頃のカーヴァーは、妻と子供を抱えて望まない仕事に就き糊口をしのいでいました。作家としての類まれなる才能を自覚していた彼の胸中には、職業作家への憧れがあったはずです。それが、男が手にした『アメリカ国民愛好詩選』に象徴されています。

 

 もしも、その後の敏腕編集者のゴードン・リッシュとの出会いがなかったなら、初短編集『頼むから静かにしてくれ』が識者の目にとまり全米図書賞にノミネートさらなかったなら、彼は製材所勤めやガス・スタンドの給油係や病院の雑用係や便所掃除やモーテルの管理人といった仕事を続けていたかもしれません。

 

 繰り返しになりますが、本作を執筆していた当時のカーヴァーはまだ漆黒の闇の中に留まっています。それがどれほどの苦しみであったかは、私のような凡人には計り知れないものがあります。しかもそれは氷山の一角のようにしか描かれず、真実の大半は水面下に隠されているのです。しかしそれゆえに、読者の想像力を刺激し、人生の不安に寄り添う作品になり得ているのではないでしょうか。

 

【③嘘つき】(『頼むから静かにしてくれⅡ』より)

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 本作はカーヴァーの短編の中ではめずらしく、書簡体で描かれた作品です。知事選に当選した息子について、母親の不安と心配が切々と綴られています。母子家庭の下で育ったその息子は、15歳のある夏の日を境に別人格に成長したと彼女は語ります。

 

『どうしてなの、坊や?』

あの子は、時折感情を爆発させることと、本当のことを口にできないことを別にすれば、良い子供でした。どうしてそういう風になってしまったのか、私にも理由らしい理由をあげることはできません。それが始まったのはある夏のことです。

 

愛がっていた飼い猫に爆竹を仕掛けて逃げた息子の姿を隣人が目撃した。しかし彼は母親を前にして何食わぬ顔でしらを切る。それを事はじめに、彼は何から何まで手あたり次第に嘘をつきまくった。学業も人望も秀でた誇るべき息子が、どうしていちいちそんな嘘をつくのか、そこにいったいどんな得があるというのか、理由がさっぱり分からない。彼女は問いかける『どうしてなの、坊や?』

 

【対話なき理性】

 母親の息子に対する問いかけには、政治家の偽善性に対する風刺が込められています。どれほど徳の高い政治家が社会を治めたとしても、政策決定の過程が隠蔽され対話の余地がなければ、この母親のように、人々は不安や心配を抱えながら暮らすことになるでしょう。

 

 アメリカ社会では伝統的にエリート層に批判的な反知性主義が定着していて、大衆の側に立つリーダーが支持される傾向があります。カーヴァーの作品も基本的にはその流れを汲んでいます。ただ、よほど政治家に対する個人的な恨みがあったのか、それとも書簡体という形式に気持ちが弾んでやり過ぎたか、ありとあらゆる嘘をつきまくる息子の記述にはすさまじいものがあります。いずれにしても、小品ながらインパクト抜群の怪作でした。

 

【②ジェリーとモリーとサム】(『頼むから静かにしてくれⅡ』より)

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 今回は『ジェリーとモリーとサム』という短篇をご紹介します。本作のタイトルについて、訳者の村上春樹は巻末の解題で次のように述べています。

 

この作品の中にはたしかにジェリーもモリーもサムも出てはくるけど(端役のバーテンダー、客の娘、昔飼っていた犬)、彼らはすべて端役であり、話の本筋とはほとんど関係ない。どうしてこんな無茶苦茶なタイトルをつけなくてはならなかったのか、いくら考えても訳者にはわからない。(『頼むから静かにしてくれ 解題』より)

 

 初めてこの作品を読んだときの私もまったく同じ印象を持ちました。『アレックスとメアリとスージー(息子と娘と飼い犬)』なら愛が感じられるし、100歩譲って「ベティーとサンディーとジル(妻と犬をくれた妻の妹と夫の浮気相手)」であっても、そこに何らかのモラル性が存在します。

 

 しかし、本作のタイトルはそのどちらでもないために、愛やモラルを読み解くのは断念せざるを得ません。これは本文についてもいえることですが、どうやらここでは、作品のなかの愛やモラルの是非を問うというよりも、むしろ読み手の自由な解釈に委ねられているようなのです。そのとき「読む」という行為は、読み手の心を映し出す鏡になります。

 

『あの糞たれ犬』

ルは妻のベティーにせがまれて家賃の高い家に引っ越してきたばかり。そこへ来て勤め先がリストラを開始した。気が滅入ったアルは、ジルという女と知り合い浮気を重ねる。便秘と小さなハゲ、それに妻の妹から譲り受けた雑種犬のスージーのしつけも悩みの種。アルは物事の秩序を正し、すべてのかたをつけるためにある計画を思いついた。それは家族の誰にも知られることなく実行されねばならない。

 

彼は片手で顔を撫で、様々な思いを少しのあいだ頭から追い払おうと試みた。そしてよく冷えたラッキーの半クォート缶を冷蔵庫から出して、アルミニウムのプルリングをとった。彼の人生は迷路と化していた。ひとつの嘘がべつの嘘で塗り固められ、いざとなってもそれを解きほぐす自信が持てなかった。「あの糞たれ犬」と声に出して言った。

 

んなところを人に見られたらみっともない、子犬を捨てるような男にどれだけの価値があるだろうか。びくびく怯えながら飼い犬のスージーを連れだしたアルの情けない顛末の一部始終が描かれる。

 

【中年の危機】

 年功序列を揺るがす職場環境の急激な変化に、主人公のアルはとても冷静ではいられません。加齢による不健康に憂鬱になったかと思えば、浮気を重ねて性的に活発になってみたり、身の回りの人間関係に辟易として、過去の後悔にさいなまれたり。その一連の言動のすべてが《中年の危機(ミッドライフ・クライシス)》の典型的な兆候を示しています。

 

 程度の差こそあれ、誰もが一度は通過すると言われる《中年の危機》。物語の後半に描かれる紆余曲折は、アル自身の弱い性格が深く関わっています。受身的で、周りの目を気にし、あるいは自尊心に振り回されて自分を制御できないダメ男。正直、私自身について振り返ってみれば、これが他人事のようには思えません(^-^;

 

 結局彼は一度捨てた犬を探しに戻ってくるのですが、結末はご自分で確かめてみてください。本作のような言葉で表現するのが難しい概念を描かせたら、カーヴァーの右に出る者はいないということがご理解いただけると思います。

 

 さて、ここまで来たらタイトルの『ジェリーとモリーとサム』まであと少し! といきたいところですが、なんだか今更それを詮索するのは野暮なことのように思えてきました。それは、人生の折り返し地点で逡巡する男の口からこぼれ出た戯言にすぎません。少しぐらい聞き逃してあげてもいいと思いませんか? こんな風に同情しているのは私だけでしょうか・・・

 

【①他人の身になってみること】(『頼むから静かにしてくれⅡ』より)

 レイモンド・カーヴァーの短編集『頼むから静かにしてくれⅡ』に収録された作品をご紹介していきます。本ブログでは以前『頼むから静かにしてくれⅠ』の13作品をご紹介しました。今回はその続きになりますが、カーヴァーのプロフィールや創作の背景、作品の魅力について、初心に返って書き留めていきたいと思います。

 

 さて、最初の作品は『他人の身になってみること』。小説家の夫に対する周囲の人々からのお愛想に得意げな妻と、そうした扱いに辟易としている夫が登場します。無名の頃のカーヴァーの実体験がこのエピソードの基になっているのかもしれません。

 

『今日は何をお書きになりました?』

イヤーズが自宅で掃除機をかけていると、妻のポーラから電話がかかってきた。彼女は職場のクリスマス・パーティーに参加していて、彼の昔の上司からの誘いを持ち掛けてきた。しかし彼が誘いを断ると、このまま家に帰るのはつまらないというポーラの発案で、以前仮住まいさせてもらったモーガン夫妻の家にアポなし訪問することに。

 

「執筆に専念するために仕事を辞めるつもりだと手紙に書いておられたが」

「そのとおりです」とマイヤーズは言って、飲み物をすすった。

「ほとんど毎日何か書いてます」とポーラは言った。

「ほほう」とモーガンは言った。「それは凄いね。ところで今日は何をお書きになりました?」

「なんにも」とマイヤーズは言った。

「なにしろクリスマスですから」とポーラは言った。

 

ーガン夫妻は、二人の突然の訪問を予期していたかのような歓迎ぶり。マイヤーズの執筆のネタにとトマト・スープ缶をぶつけられて意識不明になる男の話や、カウチでぼっくりと死んでしまった謎の婦人の話を披露した。しかし、彼らが本当に話したいことは別にあった・・・

 

【俺の身にもなってみろ】

 原題は『Put yourself in my shoes(私の靴に足を入れてみろ)』で、この慣用句を意訳すると『俺の身にもなってみろ』となります。訪問宅での歓迎ムードが一転し、小説家であるが故に嫌な思いをさせられる男の気持ちを率直に表しています。この言葉選びの奔放ぶりがカーヴァー作品の特徴のひとつです。

 

 カーヴァーの短編には、こうした捨て台詞を冠したタイトルがよく見られます。『頼むから静かにしてくれ』がそもそも奇妙な感じですよね。そこに何か意味が込められているかといえば逆で、むしろ物語のメッセージ性を崩壊させる企図でこうした台詞は使われているようです。上手く言えませんが、この感触こそがカーヴァー作品の生命線ではないでしょうか。

 

 物語を注意深く読んでいくと、登場人物の誰もが多かれ少なかれ身勝手に語り、自己中心的な思いを抱えていることが見えてきます。それでいて「人の立場で考えること」を互いに主張しているのです。村上春樹がこの原題を『他人の身になってみること』としたのは、この皮肉な状況を読み取ってもらいたいという意図が伺えます。それに少しだけ純文学らしさが加わりました♡

 

 カーヴァーのどの作品にもいえることですが、状況説明や心情表現は大胆に省かれています。読者はその省かれた部分を読み取ることで、物語に参加するような喜びを味うことができます。また、そうした読みを可能にしているのが、簡潔にして鮮やかな情景描写とストーリー・テリングの妙にあることは言うまでもありません。

 

 こんな調子で残り8作品をご紹介していきますのでどうぞ宜しく!

 

【世界で最後の花】

 本書の作者のジェームズ・サーバーはオハイオ州生まれです。雑誌「ニューヨーカー」の編集者・執筆者として活躍しました。イラストレーター、漫画家としても活動し、当時最も人気のあるユーモア文学作家の一人であったと言われています。

 

 原作は1939年9月にナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した同年の11月に刊行されています。一躍世界的ロングセラーとなり、我が国でも1983年に刊行された後に絶版になりました。2023年6月、村上春樹の新訳で復刊された本作をご紹介します。

 

《あらすじ》
12次世界大戦によって文明は破壊され、町も都市も村も地上から消えてしまった。生き残った人間たちはなにをするでもなく、ただぼんやり座りこんだまま歳月が流れた。ある日、ひとりの若い娘が世界に残った最後の花を目にする。そしてひとりの若い男とその一輪の花を育てはじめた。

 

『世界に愛が再び生まれた』

まもなく花は二本になり、まもなく四本になり、それからもっともっとたくさんになりました。 林と森がまた地上にもどってきました。 若い娘は、自分がどんなふうに見えるか、気になりだしました。 若者はその娘にさわるのが、とてもすてきな気持ちのするものだと気づきました。 世界に愛が再びうまれたのです。

 

こから膨大な歳月が流れ、新たな秩序が積みあげられていく。町や都市ができ、様々な商売や芸術が生まれた。しかし、対立する住民たちを扇動する信仰や思想によって、全てを無に帰する戦争がまたもや勃発する。

 

【魂のソフト・ランディング】

 本書には、戦争を繰り返す人類への皮肉と、平和への切実な願いが込められています。サーバーは、時の趨勢であったキリスト教的な意味付けや、マルクス主義的な弁証法などを排斥して、社会に訪れた無意味で不条理な現実を描きました。その平易な語り口と簡素なイラストには、物事を根本的に解決するうえで知性や論理など無用という徹底的な反知性主義が貫かれています。

 

 2022年2月24日、ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まりました。私たちは東西対立という歴史の混沌に再び足を踏み入れつつあります。心ある人なら誰もが、このような状況を脱して、平和で秩序ある世の中へのランディング(着地)を願うのではないでしょうか。

 

 かつて村上春樹は、原理主義ナショナリズム、極端な啓蒙思想によって物事の解決を図る「ハード・ランディング」に対抗する「ソフト・ランディング」の重要性を説きました。「ハード・ランディング」が目に見えやすい、手に取りやすい、言語化して定義しやすい一方で、「ソフト・ランディング」は内容が分かりにくく目で見えにくいものであるとしながら、次のようにコメントしています。

 

定義化しがたいものを定義するにはどうすればいいのか?言語化しがたいものを言語化するにはどうすればいいのか? 僕はそれこそが「物語」の果たすべき役割だと思うのです。(中略)僕は21世紀の物語とは(なんだか大きく出るようで心苦しいのですが)、そのような魂のソフト・ランディングに向けてのガイドライン作りにあるだろうと考えています。(ユリイカ総集編『魂のソフト・ランディングのために』より)

 

 定義しがたいものを定義するために、あるいは、言語化しがたいものを言語化するために、本作では『世界で最後の花』という比喩が使われています。たった一つ残された花を愛しむという、ささやかではあっても確かな幸せを感じる心が、平和への気の遠くなるような長い道のりを支えてくれると信じたいものです。

 

 復刊された本書も、遠からず絶版の憂き目を見ることになるのでしょうか? それもまた仕方のないことかもしれません。生身の人間が長きにわたって世界の破滅への警戒感を持ち続けるのはあまり健全とは言えませんし、そもそも本書のメッセージが戦争の当事者たちにどれほど刺さるものなのか想像もつきません。ただ、凡庸な秩序を日々重ねていく私には、素朴な絵の筆づかいが不思議に脳裏に残りました。

 

【1Q84 BOOK3】

 BOOK3では牛河の章が加わり、3つの視点が交差する形で物語が進行します。牛河の追跡を交わして再会をした天吾と青豆は1Q84からの脱出を試みます。胸のすくようなエンターテイメントの先に浮かび上がる重厚なテーマ。どうぞ最後までお付き合い下さい。

 

《牛河の物語》

俺には、ほかの人間があまり持ちあわせていないいくつかの資質がある。天性の嗅覚と、いったん何かにしがみついたら放さないしつこさだ。これまでそいつを頼りに飯を食ってきた。そしてそんな能力がある限り、たとえどんな妙ちくりんな世の中になっても、俺は必ずどこかで飯を食っていける。俺はあんたに追いつくよ、青豆さん。

 

河は、奇怪な容貌が禍して世間から敬遠されるも、頭の回転の速さと実務能力、口の堅さを認められて裏社会を生きてきた。緻密な調査と推理力で青豆と天吾の関係を読み解くが、そんな牛河をもってしても、彼らの心の内まで知ることは出来ない。

 

《天吾の物語》

あなたが僕の実の父親であったにせよ、なかったにせよ、それはもうどちらでもいいことだ。天吾はそこにある暗い穴に向ってそう言った。どちらでもかまわない。どしらにしても、あなたは僕の一部を持ったまま死んでいったし、僕はあなたの一部をもったままこうして生き残っている。

 

吾の父親は、死の直前に生霊となって巷を彷徨うが、そこまでして何を伝えたかったのか天吾にも分からない。残された遺品には、NHK集金人時代の薄っぺらい記録と天吾の成長を刻んだ品々、そして彼が初めて目にする家族写真が1枚収められていた。

 

《青豆の物語》

「でもそれがその夜であったことに間違いはない。そして私が身ごもっているのはあなたの子供だと私は確信している。説明することはできない。でも私にはただそれがわかるの」

 

豆は、雷雨の夜に誰とも関係も持たずに受胎した。授かった小さな命には、生身の人間の肉体という以上の意味も、理由も、使命も存在しない。天吾と共にこの小さな希望を育んでいきたいという願い、ただそれだけが彼女の心を占めていた。

 

【記憶の分有】

 世の中には「理由のない死」「理不尽な暴力」が存在します。それに社会的な意味付けをして物語に変えることを《記憶の共有》とすれば、個々人が想像力を働かせて、その語り尽くせぬ記憶をそのままに分かち持つことを《記憶の分有》と呼びます。

 

 誰しも他者と同じ立場に立つことはできない、他者が感じたように感じる事が出来ない状況のなかで、それでもなお、私たちは自分の立場という認識を押し広げ、あるいは自分の固有の痛みに読み替えて、他者の記憶を分かち持つことが出来ます。

 

 また、他者の苦悶に共感を寄せるとき、私たちには自分が被害者であると同時に加害者であるという想像力が働きます。命の尊厳や加害の責任などを意味付けることで不安を解消したいという衝動をぐっとこらえ、出来事を出来事のままに記憶に留める。そうした《記憶の分有》は、どのような形で文学のなかに存在し、どのような意義を持つのでしょうか?

 

『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』

「神様はもしいたとしても、俺に対して親切だったとはとても言えない。しかし、にもかかわらず、その言葉は俺の魂の細かい襞のあいだに静かに浸みこんでいくんだよ。俺はときどき目を閉じて、その言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。すると気持ちが不思議に落ち着くんだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』。悪いけど、ちょっと声に出して言ってみてくれないか?」

 

ングの箴言と共に牛河は理不尽な死を迎えた。「沈黙する神」は人為的な物語を拒絶し、物事をありのままに受け入れる事を要求する。そして、殺す者と殺される者の心理がせめぎあうこの壮絶なシーンは、肉体的・精神的苦痛の文学的メタファーが読者一人ひとりの現実の世界に還元し得る、という《記憶の分有》の一つの形を示唆している。それは、被害者であると同時に加害者として存在する私たちの歴史的一面をも象徴している。

 

【魂を描く小説】

 さて、本書は架空の世界『1Q84』を舞台として、現実的なモラルの枠組みを取り払い、魂のレベルの事象を描いていますが、本質的には現実に起きた出来事を基に私たちの社会の在り様を問題にしています。語りたいことはまだたくさんありますが、本ブログも作品に同調して具体的事実を伏せたイニシャルトーク状態になりそうなので、このあたりでやめにしておきます。

 

 エンタメ小説として楽しむも良し、総合小説の深みを味わうも良し。村上文学における最も複雑多様な作品世界に一度足を踏み入れてみてはいかがですか!