村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑦引っ越し日】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 本作は、マンハッタンのアパートメント・ハウスの管理人であるチェスター氏の一日を描いています。彼と彼の妻は20年前にマサチューセッツ州から引っ越してきた労働者ですが、管理人として与えられた地位と権限は大きく、居住者たちの暮らしを見守る重要な立場にあります。

 

『元気をお出しなさい』

 その日は、9階に住んでいたベストウィック家が引っ越していき、1階に住むニーガス家が上の階に移る引っ越しの日。ベストウィック家は以前は裕福でしたが今はそうではなく、一方でニーガス家は新興の富裕層だった。チェスターはベストウィック家の人々が去っていくのを残念に思い、またベストウィック夫人の気持ちを案じていた。

 

「元気をお出しなさい、ミセス・ベストウィック」とチェスターは言った。「べラムでの生活もきっと気に入りますよ。たしかべラムに行かれるのでしたよね?緑も多いし、鳥だってたくさんいます。お子さんの肉付きがよくなります。素敵なおうちが持てますよ」「そこは小さなうちなのよ、チェスター」とミセス・ベストウィッチは言った。

 

 そのとき彼女を暗い気持ちにさせていたのは、住み慣れた住居を離れて馴れない場に移っていく不安ばかりではない。階級社会の階段を下っていく惨めさ、その終わりの見えないつらさにあった。それに追い打ちをかけるようなニーガス夫人のわがままぶり。チェスターにはその日に起きた出来事が、どれもこれも不条理に感じられてならない。

 

【神の見えざる手】

 自由主義経済の基礎を築いたアダム・スミスは、同情や共感、正義感などの道徳的感情が人々の行動を規定しているとして、市場メカニズムや社会システムにおける自律的な過程や調整力(神の見えざる手)が社会の繫栄と人々の幸福に寄与すると考えました。その後、ケインズ経済学やシカゴ学派などが登場して輝かしい実績を残す一方で、そのアプローチの限界や欠点も指摘されています。

 

 物語の舞台となる1950年代は、自由主義経済が急速に進展する一方で、階級意識が根強く残っていたようです。チェスター氏は、これまで培ってきた素朴な倫理観からは読み解くことのできないその出来事を驚きと畏怖の念をもって受け止めています。本作においてもチーヴァーはニューヨークに暮らす人々の姿を、鋭い人間観察と的確な描写で切り取っています。

 

 ところで、私たちは世の中のことがすべて説明可能だと信じる「科学万能信仰」に陥っていないでしょうか。経済学の理論も自然科学の法則も、疑う余地のないものとして、あるいは、なんとなく分かったふりをしてやり過ごしていないでしょうか。そう考えると、説明のつかない物事に直面して、立ち止まって思いを巡らせるチェスター氏のあり方は正しい態度であり、そこには私たちが見失った大切な何かがあるように思えてなりません。

 

 経済の因果を「神の見えざる手」と語ったアダム・スミス。説明の尽きる地点をはっきりと見極めようとする明晰な科学的精神がそこにあります。昔の人はみんなエラかった(´-`).。oO

 

【シェエラザード】(『女のいない男たち』より)

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 本作は、謎の事情を抱えて潜伏する男と「連絡係」として彼の世話をする女の話です。物語の主人公は、女性信者に支えられながら2か月間の逃亡生活を送った地下鉄サリン事件の実行犯である林泰男を彷彿とさせます。

 

『前世はやつめうなぎ』

 羽原(はばら)はその女をシェエラザードと名付けた。彼女は彼より4歳年上の35歳で、小学生の子供が二人いる専業主婦。週に二度、羽原の住む「ハウス」を訪れて食料や雑貨の補充を行った。そして、『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードのように、性交のたびに謎めいた物語をひとつ聞かせてくれた。例えばこんな話。

 

「私の前世はやつめうなぎだったの」とあるときシェエラザードはベッドの中で言った。(中略)「というのは、私にははっきりとした記憶があるの、水底で石に吸い付いて、水草にまぎれてゆらゆら揺れていたり、上を通り過ぎていく太った鱒を眺めたりしていた記憶が」

 

『愛の盗賊』

 その日、シェエラザードは十代の頃の話を始めた。彼女は同じクラスの男の子に恋をしたが、彼の方は彼女のことなど目もくれない。そこで彼女は学校を休んで男の子の家に行き、玄関マットの下に鍵を見つけると無人の家に侵入した。彼女は部屋のなかをひと通り物色し、そこから鉛筆を一本持ち帰る。

 

「そう。使いかけの鉛筆。でもただ盗むだけではいけないと思った。だってそれだとただの空き巣狙いになってしまうじゃない。それが私であることの意味がなくなってしまう。私は言うなれば『愛の盗賊』なのだから」

 

 彼女はタンポンをひとつ、机の一番下の抽斗の奥に置いておくことにした。以来、彼女は危険を承知で次々と空き巣狙いを繰り返していく・・・が、続きは次回の訪問に持ち越された。その話はいったいどんな方向に進んでいくのだろうか? 羽原は一刻も早く続きが聞きたくなった。

 

【カルトを生み出すシステム】

 1980年代にオウム真理教が編み出した「ヨガ・サークル」と「ジャンクな物語」の取り合わせは、少なからぬ若者たちの心を捉えました。教祖の麻原や幹部たちの処分が下されてもなお信者たちが活動を続けている現状は、カルトを生み出す「システム」が相変わらず機能していることを意味しています。そうした「システム」こそが、私たちが最も警戒すべき脅威ではないでしょうか。

 

 シェエラザードが差し出す人肌の温もりと興味そそられる物語は、羽原にとって『現実を無効化してくれる特殊な時間』になります。その代償として自分の肉体と精神の自由を「システム」に委ねる構図は、カルト教団が信者たちを支配する仕組みそのもの。羽原は空っぽの心で『やつめうなぎ』の一員になった自分を思い浮かべますが、いつかそれはとんでもない「狂気」にすり替わっていくかもしれません。

 

 さて、シェエラザードが語った『空き巣狙い』の続きは私も初読の時から気になっていましたが、2021年に濱口竜介監督の独自解釈による斬新な結末にお目にかかることが出来ました。気になる方は映画「ドライブ・マイ・カー」をチェックしてみてください。

 

【⑥治癒】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 人生における中間点やピークを指して「人生の正午」と呼ぶとき、それは、過去の経験を振り返り、未来の方向性を見極めるための転換期を意味します。本作は、そんな「人生の正午」の人物が遭遇した不思議な話です。

 

『私にかまうな!』

 それはある夏の日のこと。「私」と妻のレイチェルは言い争いをし、彼女は子供たちを連れて家を出て行ってしまった。レイチェルの出奔は過去に二度あったが、いつも彼女からの電話に折れるかたちで復縁してきた。それでもぶり返す惨めな日々を今度こそ終わらせるため、電話には一切出ないことにした。

 

 家族が去って二週間。「私」は『治癒』と称する無為の時を過ごしていたが、ほどなくして不眠に悩まされるようになる。夜中の三時に目を覚まし、居間で本を読んでいると、自分が誰かに見られている気配がする。振り向くと、正体不明の徘徊者が窓の外からこちらの様子を伺っていた。幻覚ではない証拠に、次の夜も同じ事が繰り返された。

 

「消え失せろ!」と私は叫んだ。「彼女は行ってしまった!レイチェルはもういない!ここにはみるべきものなんてないんだ!私にかまうな!」そして窓に駆け寄ったが、男は既に姿を消していた。

 

 翌朝の通勤列車を待つ乗客の中に「覗き屋」と思しき人物を見つけた。髪が白くなりかけた男と、美しい娘と、その奥さんが一緒に立っている光景は、「私」の気持ちをもっと落ち込ませる。彼はいったい何が目的で夜の徘徊をしているのだろう?

 

【生産性vs停滞】

 E・H・エリクソンの『心理社会的発展理論』によれば、「人生の正午」には《生産性vs停滞》と称する課題が生じます。それは、家族や仕事、社会への献身が求められる生活のなかで引き起こされる一時的な停滞感や虚無感です。しかし、そうした献身に自分の生産性や存在意義を見出し、次世代のために価値あるものを残すことで充実感や満足感を取り戻すことが出来るとされます。

 

 物語の後半から主人公は健全な日常を逸脱しはじめ、その結果、自己の深刻な虚無感と向き合うことになります。おそらく「覗き屋」が見つめていたのと同じものを。家族への献身に意義を見出せず、自己中心的な思いに囚われていた自分。いまさら若い頃のような行きずりの甘美な出会いなど叶うべくもない。神妙な面持ちの主人公のもとに突然電話のベルが鳴り、復縁を求めるレイチェルの涙声が飛び込んできます・・・

 

 さて、再びエリクソンの理論から。この後に続く人生の晩年には、未達の夢や未解決の課題の受容と和解という試練が私たちの行く手に待ち構えています。そうした物語のご紹介は、いずれまた別の機会に。

 

【⑤バベルの塔のクランシー】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 《愛は負けても、親切は勝つ》という言葉を残したのは、アメリカの作家カート・ヴォネガットです。愛や正義は時に失敗や挫折に直面することがあるのに対して、親切や思いやりは軽やかに情勢を打開するという考え方です。本作は、ある善意の人物が遭遇したモラルの衝突を通じて愛と親切の行方を描きます。

 

『まるでバベルの塔のようだ』

 クランシー氏はマンハッタンの高級アパートメントでエレベーター係の職を得た。彼が暮らす貧しい地区からそれほど離れていない場所にあるが、経済的にも、モラル的にも、クランシー氏とはまったく異なる人種が住んでいる。それでも、田舎育ちで培った職務に対する実直さと、あけっぴろげな親切心を発揮しながら居住者たちに受け入れられていった。

 

夕方に帰宅すると彼はまるで帰還した旅行者のように、自分がその日に目にしたものについてノーラ(=妻)に語るのだった。プードル犬や、カクテル・パーティーや、子供たちとその乳母たちが彼の関心を引いた。あそこはまるでバベルの塔のようだよと彼はノーラに言った。

 

 ある日、居住者の一人であるロワントゥリー氏が知人を紹介し、彼と一緒にここに暮らすと語った。クランシー氏は二人がゲイカップルであることに気づくと、旧世界のモラルをもってエレベーターの搭乗を拒否した。管理人のとりなしで解雇は免れたものの、その後もクランシー氏のお節介は止まらない。

 

【他者との共存】

 今でこそアメリカはLGBTの権利で世界の覇権を握っているように見えますが、1950年代初頭においては、同性愛やトランスジェンダーは非合法で、社会的にも広く非難される対象でした。物語の中でクランシー氏が衝動的にゲイカップルを拒絶したのも、当時の社会通念からすれば仕方のないことでした。

 

 クランシー氏はアパートメントのいざこざに介入するうちに体調を崩し、入院を余儀なくされます。ロワントゥリー氏が集めた多額のお見舞いを受け取りますが、この倒錯者に対してどのような態度をとるべきか決めかねます。自分が知り得ない愛や正義がこの現世には存在し、半ば盲目のままに今日まで生きてきたわが身を振り返るクランシー氏。次にロワントゥリー氏と出会った時にはもう何も言わないでおこうと彼は心を決めます。

 

 村上春樹の解説によれば、同性愛は作者のジョン・チーヴァー自身が抱えてきた悩ましき問題でもあったようです。それを罰せられるべき罪悪と見なす理性と、自然な求めとする感情の二つの想念が、クランシー氏とロワントゥリー氏という対立する人格を作り出しました。物語の終盤で両者は共に敗北感を滲ませていますが、そこには意見の異なる他者との共存を探る寛容性の芽生えが感じられます。

 

 さて、冒頭に触れた《愛は負けても、親切は勝つ》という表現が本作にあてはまるのか、私には少し疑わしく思えてきました。勝利の喜びの無い勝ちに対しては、もっと別の言い方がふさわしいようにも思えますが・・・今回はひとまずここまで。

 

【④トーチソング】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 本作は、どうしようもないダメ男ばかりに惚れて破局を繰り返す女性と、彼女を陰ながら見守る男がたどった不思議な話です。タイトルの『トーチソング』は主に1930年代に流行した片思いや失恋の気持ちを歌った流行歌。物語を包み込む純真無垢な旋律の裏には意外な事実が隠されていました。

 

『哀れを感じさせるバラード』

 ニューヨークで知り合ったジャックとジョーンは、男女の垣根を超えたソウルメイト。前向きでエネルギッシュなジャックは、恋人を次々と替えながら都会生活を満喫していた。一方、穏やかで人当たりの良いジョーンが出会う相手は、酒や薬物の依存者や荒くれ者ばかり。

 

 ある日ジョーンから電話がかかってくる。周囲からの言いがかりでアパートを追い出されかけていると彼女は言うが・・・

 

業者と近隣住民から受けたひどい仕打ちについて語る彼女は、いつもながらに清純で無垢に見えた。ジャックは彼女の語りの中に憤りや、苦々しさを聞き取ろうと注意深く努めたが、そんなものは聞き取れなかった。切羽詰まった響きさえなかった。彼はあるトーチソングを思い出した。そのやるせない、哀れを感じさせるバラードのひとつを。

 

 その後も悪質な男たちから不遇な扱いを受けているジョーンの噂をたびたび耳にする。しかし、彼女と付き合った男たちが皆哀れな死を遂げていることも明らかになる。

 

 戦時下の混沌とした時代に、結婚と離婚を繰り返しながらジャックは家庭と仕事の両方を失い身体も壊してしまった。そしてついに、場末の安アパートで床に伏せる彼の目の前に、死神さながらの黒服に身を包んだジョーンが姿を現した。

 

【黒い快楽】

 《シャーデンフロイデ》とは、他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる喜び、嬉しさといったねじれた嫉妬感情です。週刊誌のスキャンダル記事や芸能ゴシップを扱う番組に耳目が集まるのは、誰の心にも《シャーデンフロイデ》が存在するためと言われています。黒服を身にまとったジョーンは、黒い快楽を追い求める《シャーデンフロイデ》の化身のような存在です。

 

 田舎からニューヨークにやってきた若者たちが洗練されていく姿を描いているようでいて、話が進むごとに悪夢の様相を呈していきます。ジャックが落ちぶれた理由も、ジョーンが人の不幸を嗅ぎつける魔物になった原因も明かされず、そのあいまいさが恐怖をさらに増幅します。そこには誰もがジャックやジョーンのようになりかねないという寓意も込められているに違いありません。都市に潜むカフカ的不条理という作家ジョン・チーヴァーの本領がいかんなく発揮された作品でした。

 

【独立器官】(『女のいない男たち』より)

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 本作は、都会の片隅で情事を楽しんできた男が、食べ物も喉を通らなくなるほどの痛切な恋に落ち、その結果自らを死に追いやることになってしまった話です。

 

『渡会医師の恋』

 美容整形外科医の渡会(トカイ)と「僕」は趣味のスカッシュを通じて知り合い親交を深めてきた。渡会は恋人や配偶者のいる女性の浮気相手をしながら気軽な独身生活を謳歌していた。しかし、あるとき不覚にも夫と子供を持つ女性と深い恋に落ちてしまう。渡会は敦忠の和歌*1を引き合いにしながら、遅れてやってきた恋煩いの苦悩を「僕」に打ち明けた。

 

「恋しく想う女性と会って身体を重ね、さよならを言って、その後に感じる深い喪失感。息苦しさ。考えてみれば、そういう気持ちって千年前からひとつも変わっていないんですね。そしてそんな感情を自分のものとして知ることのなかったこれまでの私は、人間としてまだ一人前じゃなかったんだなと痛感しました。気づくのがいささか遅すぎたようですが」

 

 その後、渡会はジムに顔を見せなくなり、彼の秘書である後藤から渡会は死んだと知らされる。後藤は渡会の恋の顛末を語り、遺品のスカッシュ・ラケットを「僕」に引き渡すと、 この先も渡会医師のことを忘れないでいてほしいと懇願した。

 

【後藤青年の恋】

 渡会は天性の才覚を駆使してパートナーを持つ女性たちと技巧的な交際を重ねてきました。しかし、ある女性の出現によって技巧を手放したときに悲痛な結末が訪れます。渡会曰く、女性は魂とは別の独立した器官を用いて嘘をつく。同じように渡会もまた独立器官を用いて恋をした。そこには当人たちの意思ではどうすることもできない他律的な作用が働くのだと語られます。

 

 その一方で、ゲイの後藤が渡会に寄せる恋心は慎み深いプラトニックなものでした。普通ではない人物への普通ではない恋情は、励ましも共感も得られない孤独な世界です。しかし、他律的な本能に揺さぶられながらも、自己を律する生き方がここにあります。そしてこのポートレートは、後藤青年がショックから立ち直り、これからの人生をうまく生きていくことを願って記述されたということが最後に明らかとなります。

 

 渡会医師は死の間際に何を考え、どのような境地に至ったでしょうか? その渡会医師の精神や人生観を後藤青年はどのように受け止めたでしょうか? それを知るすべは無く、いくつもの解釈の余地を残しながら物語は幕を閉じます。

 

 さて、現実にはとうてい踏み込めない告白内容の異様さにも関わらず、語り口の巧みさによって思わず引き込まれてしまいました。世知辛い世の中に食傷気味なあなたにおすすめします。読み終えたとき、自分の視野が少しだけ広がったような気分が味わえますよ♪

*1:中納言敦忠の歌:『逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり』拾遺和歌集より

【③サットン・プレイス物語】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 ジョン・チーヴァーの作品はカフカ的手法が取り入れられているところに特徴があります。それは非現実的な要素を通じて、読者が現実の深層に触れたり幻想的な雰囲気のなかで思いを巡らせたりする効果を生んでいます。今回はサットン・プレイスに暮らす「中の上」クラスの家族がパニックに陥る話です。カフカ的手法も含めてご紹介します。

 

『デボラの身に何かあったら』

 ロバートとキャサリンの夫妻にはデボラというかわいらしい3歳の娘がいて、通いの乳母に面倒を見てもらっている。教会での日曜礼拝を欠かしたくない乳母は、夫妻に黙って一時的にデボラを知り合いのルネにあずけていた。そんなある日曜日の朝、ルネが目を離したわずかな隙にデボラが行方が分からなくなってしまう。

 

「もしデボラの身に何かがあったら」とキャサリンは言った。「私は自分を許すことができないと思う。自分のことが絶対に許せない。自分たちがあの子を生贄にしてしまったみたいに感じることになるわ。アブラハムのところを読んでいたの」。彼女は聖書を開いて読み始めた。

 

 デボラを捜すロバートの目に映るサットン・プレイスの賑わいは、生命を脅かす危険が蔓延する空間に変貌した。デボラの身の安全を祈るキャサリンにとって、仕事と社交に明け暮れた充実した日々は、今や灰色の影が差し込む記憶に塗り替えられた。

 

【都会の片隅に潜む神秘】

 我が子の行方が分からないという親にとってたまらなく苦しい時間が流れます。さらに、デボラに関わった人々の行動が白日の下にさらされます。わが子の養育を怠る両親。大人の事情を抱える関係者。偽善と虚無が支配するサットン・プレイスの街。

 

 捜索が進む中で、過去にキャサリンと口論して乳母を辞した女性が登場します。彼女は夢のお告げでデボラの失踪を予知していて、星占いに絡めてデボラには特別の注意を向けるべきと指南。一瞬、物語に怪しげな空気が漂うのですが、ロバートも立ち会いの巡査もこの女性が誘拐犯でないことを確認すると、何事もなかったことにして立ち去ります。

 

 その後デボラは保護されて事なきを得ました。ロバートもキャサリンもこの出来事を通じて自分たちの不道徳や無信仰を反省するのですが、おそらく同じようなことはこの先も繰り返されるように思えてなりません。なぜなら良くも悪くもデボラのことを理解している大人は、乳母を辞したあの女性ただ一人だけなのですから。

 

 かの女性が登場するカフカ的場面は、あえてサブリミナル効果を狙ったのか、緊迫した展開に埋没してしまった感があります。しかし、ここは物語を読み解く勘所なのでネタバレの禁を犯して言及しました。こうした都会の片隅に潜む神秘とその善とも悪ともつかない側面は予定調和を回避して、自由な発想を喚起するチーヴァーならではの趣向が感じられます。