村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者のボクが独自の切り口で作品を紹介します。

【フィッツジェラルド体験】(マイ・ロスト・シティーより)

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おかげさまでブログの投稿も60回を超えました。書き込みスタイルはすっかり定型化したものの、内容までが過去の投稿の繰り返しにならないかと危惧しているところです。ボクのなかの順番では村上作品の短編モノをご紹介するつもりでしたが、ここは少しインターバルをとって態勢を立て直したいと思います。

 

ところで村上春樹は優れた翻訳家としても知られています。なかでもスコット・フィッツジェラルドの作品を口語体で現代に蘇らせた業績は高く評価されるべきではないでしょうか。フィッツジェラルドは『グレート・ギャッツビー』以外にも数多くの名作を残していて、ボクたちはその多くを読みやすい村上訳で味わうことが出来るのです。

 

本書『マイ・ロスト・シティー』は初となる翻訳作品で、訳者によるエッセイと6つの作品で構成されています。フィッツジェラルド作品に入る前に、なぜ彼が偉大な作家であったかについて語った若き翻訳家・村上春樹のエッセイからご紹介します。

 

フィッツジェラルド体験】

何年かにわたるそのような「フィッツジェラルド体験」のあとでは、僕の中の何かがすっかり変わってしまったような気がした。乱暴な言い方をすれば、ドストエフスキーバルザックヘミングウェイは、二十代の僕の中で少しずつその輝きを失っていった。彼らは言うまでもなく立派な作家だ。しかし彼らは僕のための作家ではなかった。

 

ある《経験》が自我の中に取り入れられ、生き方の中に定着することで《体験》になるといわれています。大人になるにつれ経験したことを真の体験にまで深めることは稀になりますので、月並みな言い方ですが若き日の《読書体験》の機会は大切にしたいものです。

 

フィッツジェラルドの小説世界】

 フィッツジェラルドの小説の魅力のひとつは、そこに相反する様々な感情が所狭しとひしめきあっていることにある。優しさと傲慢さ、センチメンタリズムとシニシズム、底抜けの楽天性と自己破壊への欲望、上昇志向と下降感覚、都会的洗練と中西部的素朴さ・・・・・・フィッツジェラルドの作品の素晴らしさは、彼がこのような様々に対立しあうファクターをいわば本能的に統御し得た点にある。

 

 1920年代のアメリカ社会で時代の寵児にまで上り詰めたフィッツジェラルドの最大の魅力は小説に対する本能的な感性ですが、その感性を支えたものはモラルであったと村上春樹は分析しています。高いモラルがあればこそ描くことのできる退廃や崩壊の美学があります。フィッツジェラルド作品は、華やかな絶頂期ばかりでなく、公私に渡る凋落期のなかでも奇跡のような底光りを放っています。

 

次回からフィッツジェラルドの前期から後期にかけてのダイジェスト的な六つの短編をご紹介していきます。その魅力を上手く伝えられるかどうか自信ありませんが、このウズウズする気持ちだけでもお届けできればと思っています(^▽^)/

【ダンス・ダンス・ダンス(下)】

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【オドルンダヨ、オンガクノツヅクカギリ】

曹洞宗坐禅は《只管打坐(シカンタザ)》とも呼ばれ、ただひたすらに坐るとされるものです。それを何か別の目的の手段にしたり、見返りを求めたりしないで坐り続けるというのはなかなか難しいことでもあるようです。

 

『音楽の続く限り・意味なんて考えず・踊るんだよ』という羊男の言葉は、この《只管打坐》に似ています。主人公の「僕」は、浮世離れした映画スターや奇妙な拡大家族との交流を続けながらも、そこに私利私欲や自意識を持ち込まず、ひたむきに彼らと向き合うことで次々と新たな関係性に身を投じていきます。

 

物語は「僕」のステップの跡を追うようにして徐々に現代社会の病理を浮かび上がらせていくのですが、同時に並々ならぬ数のページを読み進めながら、遅々とした筋書きの進展を待ち続ける忍耐の読書にもなります(笑)。今回のブログも焦らず急がず無事に結論にたどり着くことを願いながら下巻のご紹介をしていきたいと思います(^^)/

 

【ディック・ノースの人生】

「僕にはわかったんです。これは一生に一度のことなんだって。こういう巡り合いというのは一生に一度しかないことなんだって。そういうのってね、わかるんですよ、ちゃんと。で、僕は思いました。この人と一緒になったらたぶん僕はいつか後悔することになるだろう。でも一緒にならなかったら、僕の存在そのものが意味を失うことになるって。」 

 

ディック・ノースは人妻のアメに恋をして、家庭も仕事も何もかもを投げ捨ててしまいました。 このような激しい恋愛感情は、周りの人間から見れば馬鹿げたものに映るかも知れませんが、彼の生き方には人の存在を意味づけるものが常識の造詣や徳の高さばかりではないことが感じらます。

 

【五反田君の人生】

「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ。(中略)無意識的な行為なんだ。でもその感触だけは覚えている。そういう感触のひとつひとつが僕の両手にしっかりとしみついている。」 

 

おそらく離人症と思われる五反田君は、血なまぐさい行為にしか現実味を感じとることが出来ないと告白します。遺伝的な要因も含んだこのような人格を生かしていける道は限られたものでしょう。人生の崩壊を目前にしながらも、独自の規範と美学を保っていこうとする彼の姿に「僕」は心を寄せていくことになります。

 

現代社会の病】

ディック・ノースの不倫恋愛や五反田君の異常行動は、日常生活からみれば奇怪なものに映るかもしれませんが、それは不倫ドラマや猟奇ミステリーなどを嗜好するボクたちの乾いた情緒の延長上にあると言えなくもありません。むしろ問題なのは、昨今の社会システムがこのような負の感情に対する受け皿を持たないために、「正しくない」とされる者を見つけ出しては歯止めが利かないスケープゴートを繰り返している冷酷な現実ではないでしょうか。

 

臨床心理学者の河合隼雄は次のように語っています。

おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる。(影の現象学より)

 

【心の世界の拡張】

作者は物語の中で《羊男の部屋》と《白骨死体の部屋》という二つの不思議な空間を設けました。この空間を介することで見えてくるものがあります。

 

それは、世間的な見方がどうであれ、取り換えの利かない至上なものに繋がることが人の存在を意味付けていること。死から逆算することで、人生の崩壊の途上にあったとしても人は固有の可能性に向って生きることが出来るということ。そのどちらもボクたちの認識を正と負の両方向へと押し広げるものです。

 

このような文学のもつ想像力によって《心の世界の拡張》がなされるなら、ボクたちはどんな時でも偽りの無い自分として十全に存在することができるのかもしれません。

 

余談ですがボク自身はダメな自分の言い訳に《心の世界の拡張》を利用する傾向があるので気を付けるようにしています・・・(^^;)

【ダンス・ダンス・ダンス(上)】

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本作は青春三部作の一つである『羊をめぐる冒険』の続編になっています。前作は70年代の戦後民主主義イデオロギー幻想を葬って一旦幕を閉じました。

あれから4年、自分の関わる物事にベストを尽くしながら陰鬱な過去の影を捨て去ろうとして来たものの、何処にも行けず、誰も真剣に愛せず、何を求めているのか分からないまま年を重ねていく不安が冒頭に語られます。『ノルウェーの森』の爆発的なヒットで、はからずも時代の寵児となってしまった作者自身の姿をそこに重ねずにはいられません。

大量消費社会を迎えた80年代を舞台に魂の再生をめぐる冒険が再び始まります。 

 

【あらすじ】

フリーのライターとして忙しい日々を送っていた僕は、1983年3月のはじめにカメラマンと二人で函館の食べ物屋を取材していた。書き上げた原稿を彼に託して札幌行きの特急列車に乗り込み、あの懐かしい「いるかホテル」へと向かった僕は予想も出来ない事態を目にした。かつて小さなみすぼらしいホテルであったそれは、26階建ての巨大なビルディングに変貌を遂げていたのだ。

 

【いるかホテルの顛末】

「ドルフィン・ホテル・チェーン」と僕は言ってみた。「そう。ヒルトンとか、ハイアットとかに匹敵するクラスのチェーンだよ」「ドルフィン・ホテル・チェーン」と僕はもう一度繰り返した。引き継がれ、拡大された夢。「それで、昔のドルフィン・ホテルの経営者はどうなったんだろう?」「そんなことは誰も知らない」と彼は言った。

 

いるかホテルの買収は強引なものでしたが、この時代にあってそれは腐敗とはみなされません。それが資本投下であり、システムであり、高度資本主義のプロセスというものだと、「僕」はため息と共に受け止めざるを得ませんでした。

 

【羊男のメッセージ】

「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」

 

主人公は異界の暗闇に包まれたホテルの一室であの羊男に再会します。『僕が求め羊男が繋げる』という営みも、そしてその部屋の寒さも、人生を振り返ってみればどこか見覚えある景色であることに「僕」は気づきます。

 

【五反田君の世界】

ゴージャスなプロの女の子と一晩楽しんで、ぼんやりとコーヒーを飲んでいた。そしてたぶんこれからぐっすりと眠る。好むと好まざるとにかかわらず、そして程度の差こそあれ、我々はーーー僕と五反田君とはーーーごく普通の世間の生活様式からははみだしてしまっていた。

 

五反田君と接触したことで主人公は深刻なトラブルに巻き込まれていきますが、それをきっかけにして、彼は自ら社会生活を離脱し狂気にも似たもう一つ世界に関わっていくことになります。

 

【象徴交換と死】

ボードリヤールによれば、商品を物質としてではなく象徴的な記号として交換することを《象徴交換》と呼びます。《象徴交換》によって自己増殖した大量消費社会の中で人はシステムの歯車として生きていくしかないのですが、唯一《象徴的な死》を交換手段とするときに、このシステムの呪縛から解放されると彼は語っています。

 

この考え方はとてもややこしくてボクは長らく理解できなかったのですが、この度のパンデミックによって世界中の経済活動が止まるのを目にすると、人の命を差し置いてまでこの社会のシステムを動かすことは出来ないという理屈がようやく呑み込めた気がします。

 

主人公の「僕」は80年代の高度資本主義の社会を見渡して違和感を感じる一方で、社会からはみ出して虚構の世界に生きる五反田君に深く関わって行きます。

 

果たして主人公は生の条件でもある現実社会をとるのか、理想を求めて象徴的な死をとるか、あるいは第3の選択肢を見つけるのでしょうか?そして羊男が「僕」に語った『音楽の続く限り・意味を考えず・踊り続ける』とはいったいどういうことなのでしょうか?

 

羊をめぐる冒険』以来のハルキ節を気持ちよく堪能してきましたが、ここで一旦頭を空っぽにして一区切り。続きは【ダンス・ダンス・ダンス(下)】のブログにて。

【ノルウェイの森(下)】

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発売当初の帯には『100パーセントの恋愛小説です』というキャッチコピーが付いていました。なるほどこの作品はこれまでとはまったく手法の違う《恋愛リアリズム小説》に間違いないのですが、そこには刺激が強すぎて目を背けてしまいたくなるような性描写も登場します。そんな《ダーティー・リアリズム》にはどんな意味があるのでしょうか。あるいはそこにあるのは脱構築的な目論見でしょうか・・・いやいや止めておきます。今回はウンチクに頼らず、ボクの素朴な恋愛観だけでなんとか頑張ってご紹介してみたいと思います。

 

【あらすじ】

同じ寮生の永沢が外務省の公務員試験に受かり、恋人のハツミとの祝いの席に呼ばれるが、そこで二人の痴話喧嘩にまきこまれた挙句、ワタナベまでも永沢との女遊びを咎められる。一方、そっぽを向かれていた緑から2か月ぶりに話しかけられ、彼女が自分にとってかけがえのない存在であることに気づくワタナベ。いま彼に出来ることは直子をそばで見守るレイコに全てをうちあけた手紙を書くことだけだった。

 

【少年期の憧憬】

「あのね、ワタナベ君、どんな事情があるかは知らないけれど、そういう種類のこと〔スワッピング〕はあなたには向いてないし、ふさわしくないと思うんだけれど、どうかしら?」とハツミさんは言った。彼女はテーブルの上に手を置いて、じっと僕の顔を見ていた。「そうですね」と僕は言った。「自分でもときどきそう思います」「じゃあ、どうしてやめないの?」

 

永沢と二人で行きずりの女の子を取りかえながらSEXしたことをハツミに咎められ、ワタナベには返す言葉もありません。後にワタナベはこの出来事を振り返り、ハツミの中に《無垢な少年期の憧憬》を見出しています。

 

プラトニックとエロティシズム】

「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて済んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとても混乱しています。」

 

レイコに宛てたこの手紙には、自分に正直であろうとすればするほど迷宮にはまり込んで苦しむワタナベの心情が綴られています。直子へのプラトニックな愛だけでは、心と体を互いに求め合う緑との関係(エロティシズム)を超えられないことを、その時の彼には受け入れることができません。

 

【大人への道のり】

永沢とハツミの後日談に依ると、永沢は順調に外交官の道を歩み続ける一方で別の男と結婚したハツミは2年後に自死を遂げています。なんだか不条理な現実を思わせますが、この挿話はもしかするとワタナベにとって《無垢な少年期の憧憬》の終焉という人生の転機を表しているのかもしれません。

 

直子とレイコについて言えば、自殺願望者が望む命の再生は、肉体もしくは精神レベルの死によってしかもたらされないという何処かで聞いた精神分析学の見解を思い出します。紆余曲折は伏せられていますが、療養所から出てきたレイコは結果的に直子の死が代償となって再生がかなえられたような状態で物語の終盤に再登場します。

 

そのレイコは、あたかも望まない形の自身の復活への自傷行為のように、酒と歌とSEXの一夜をワタナベと共に過ごすのですが、このあたりの展開は《無垢な少年期》が心に残るボクにはとても刺激が強すぎてめまいすら覚えます。

 

ボクは村上作品のモラル観に全幅の信頼をおいているので、それを手掛かりにこれまで作品を読み解いて来たのですが、恋愛をはじめとするこの先のテーマには、モラルを破壊し悪を抱えて臨まなければ乗り越えられない壁が読者の前に立ちふさがるようになります。今更の感はありますが、要するに大人になる時がこのブログにも訪れたということなのかもしれません(-_-;)

 

物語のラストは、不意に電話口の緑から「あなた、今どこにいるの?」と尋ねられたワタナベが「僕は今、どこにいるのだろう?」と自分に問いかける印象的なシーンです。もし彼にボクの言葉が届くなら親しみを込めてこう呼びかけてみたいと思います。

 

          「大人の世界へようこそ!」

 

 

【ノルウェイの森(上)】

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本書はリアリズムの文体で描かれています。これまでファンタジーの枠組みで語られてきた前衛的な概念が、私小説(的作風)においても成立させることができるのか試されているように感じます。また本書は驚異的な売り上げを達成して社会現象を巻き起こしました。それまで一部の読者層でサブカル的な読まれ方をしてきた村上作品が、大衆文化のなかでどのように受け入れられるかを計る試金石にもなっています。


【あらすじ】

ハンブルク空港に到着した飛行機から流れるビートルズの「ノルウェイの森」が直子と過ごした日々を蘇らせた。ワタナベは自殺した友人の元恋人だった直子と、中央線の車内で偶然再会したのをきっかけにつきあい始める。 二十歳の彼女の誕生日のある出来事以来、不意に彼女からの連絡が途切れた。しばらくして届いた手紙には大学を休学し京都の山中の療養所にいると書かれてあった。  

 

 【直子の記憶】

もっと昔、僕がまだ若く、その記憶が鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。(中略)全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。

 

村上作品では、これまでに何度も直子はその後姿を見せていたことから、ボクのような村上主義者はのっけから既視感を覚えずにいられません。

 

【緑との出会い】

その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。僕はこんな生き生きとした表情を目にしたのは久しぶりなだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺めていた。

 

大学で同じ授業を受けていた緑との出会いのシーンです。律義なワタナベは直子のこともあって彼女との恋愛に一線を画すのですが、次第に彼女の存在は彼の中で大きくなっていきます。

 

【二つの生】

哲学者の竹田青嗣はその著書『恋愛論』のなかで次のように語っています。

「わたしたちの内には二つの生が存在する。人はこの二つの生を同じ場所で同時に生きることができない。しかし、双方の生は無関係なのではなく、むしろ双方が互いにもう一方の生の根拠であるような性格をもつ。(中略)このきわめて逆説的な性格、これこそ、人間の生というものの最も深い本質だとしたらどうだろうか」

 

例えば、恋愛感情と生活感情といった相反する生を同時に体験したり自覚したりすることは出来ません。誰でも一度ならず恋愛を体験したことがあるにもかかわらず、それから醒めているとき、ボクたちは知らず知らずのうちに嫌悪と侮蔑の眼差し恋人たちに向けています。そんな眼差しの裏には、挫折や失望、後悔といった無数の心の傷が隠されていると云われています。

 

さて、主人公のワタナベは直子との再会に運命的なものを感じています。それは「自分だけが直子を幸福に導くことができる」という確信です。その一方で、緑とのロマンスも始まります。自由奔放な彼女に振り回されるうちに、ワタナベは病にかかったように緑を追い求めます。

 

主人公がはまり込んだ場所は、『恋愛論』に依れば《恋愛の絶対感情》と《恋愛の狂気性》と呼ばれる状況によく似ています。このような恋愛感情は生活感情と相容れないばかりでなく、彼をさらに深い精神の異界へと引き込んでいくことになります。

 

・・・と、ここまで上巻の内容をご紹介してきたのですが、この先に起こるエピソードをどのように語ればいいのか、

 

    正直なところボクは途方に暮れています。

 

下巻はボクにとって水先案内の見あたらない唯一無二のハルキイズムに突入しますが、それについては次回のブログにて。

【世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)】

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 物語は後半に入ると意識と無意識の世界は徐々にシンクロしはじめ、『世界の終り』にまつわる謎も解き明かされていきます。

はじめに言っておけば良かったのですが、後半に進むほど痛みや死やSEXが頻繁に登場するので、これから読む人の中には不快に感じる方がいるかもしれません。ボクのブログは村上作品に対するアレルギーを少しでも緩和できればという思いもあって、あえて楽観的な語り口をモットーにご紹介しているのですが、実際に作品に触れて嫌な感じを覚えたとしたら、ひとまず読むのを中断することもお勧めします。気楽にお付き合いいただければ幸いです。

 

【あらすじ】

『世界の終り』では、街の持つ矛盾に気づいた僕は街からの脱出を企てます。一方の『ハードボイルド・ワンダーランド』では、脳に組み込まれた時限爆弾からの救いを求めて、地下世界の決死行がはじまります。

 

【世界の終り】

「この街の完全さは心を失くすことで成立しているんだ。心をなくすことで、それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこんでいるんだ。だから誰も年老いないし、死なない。(中略)日々生じるささやかな心の泡のようなものをかいだしてしまうだけでいいのさ」

 

影は街を出て行くよう「僕」に説得を続けます。この街には喜びも至福も愛情もなく、心のない人間はただの歩く幻にすぎないと。しかし、夢読みの図書館で出会った彼女を残してこの街から出て行くことに「僕」はためらいを感じていました。

 

【ハードボイルド・ワンダーランド】

「まず最初に私はあんたに謝らねばならんでしょうな」と博士は言った。「いかに研究のためとはいえ、あんたをだまして利用し、ひいてはあんたをのっぴきならん状況に追い込んでしまった。これについては私も深く反省をしておるんです。・・・」

 

「私」の脳に組み込まれた第3回路は、博士が組織に頼まれて作り出した意識の核を開放するシステムでした。それを放っておくと「私」は第3回路の中にはまり込んでしまい、そこにある『世界の終り』で永久に暮らすことになると言うのです。

 

【アンチ・オイディプス

『アンチ・オイディプス』の共著で知られる思想家のドゥルーズ精神科医ガタリは、人間の本来の機能を完全なる自由の《欲望する機械》と定義しました。しかし現代人は心の内面にまで侵蝕された規律によって欲望が制御されていて、この社会システムを乗り越えようとする動因は失われてしまっているとされます。

 

例えば、精神科学はエディプスコンプレックスのような性的欲望は抑圧して閉じ込めるべきだと人々を啓蒙します。このような考えは社会秩序の枠組みに欲望のはけ口を引き込み、人々の心には欲望を律する制御回路が作り出されていきます。そして今や世界中を覆う高度資本主義は、欲望の規律化によって生み出された《社会機械》の最終形態であると彼らは語っています。

 

このような考え方は80年代に我が国に紹介されて、ポストモダン思想ブームを引き起こしました。その当時「ニューアカ」と呼ばれた先生方は、ドゥルーズ=ガタリの思想に即して「固定観念にとらわれず柔軟に生きるのが最先端の賢いやり方」だとして、社会システムからの《逃走》を提唱しました。

 

さて本書の後半は、主人公の意識の核に埋め込まれた人工的な回路である『世界の終り』からの逃走劇ですが、これは明らかにポストモダン思想を下敷きにしているように思えます。しかし、無意識の「僕」と自我の「私」が最終的に下した決断が如何なるものであったかは、ここでは伏せておきたいと思います。

 

ボクが本書から感じたのは、生きることに伴う責任、死と共に生きることの意味、そしてたとえ欲望が奪われ社会システムの下僕になったとしても、自己と出会い、他者と心を通わせる可能性を信じれるならば、賢いとは言えない選択肢も有り得るということ。う~ん、やはり結末を匂わせてしまっているようでスミマセン(-_-;)

【世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)】

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 この作品は一人の人間の《意識》と《無意識》の世界が交互に描かれます。

初めて読んだときには現実離れした娯楽作品のように思っていたのですが、改めて読み返すと、壁に囲まれた街の成り立ちにはユング心理学の裏付けがあり、計算士の脳に組み込まれたプログラムはある種のポストモダン思想を見立てていたことが分かりました。

様々なメディアに影響を与えた革新的なアイデアと、細部を掘り下げるほどに飛び出す示唆に富んだエピソードの数々。文庫版の構成に従って(上)(下)2回に分けてご紹介します。

 

【あらすじ】

『世界の終り』では、壁に囲まれた街にやって来た僕が、街の持つ謎と街が生まれた理由を影と共に探し求める。一方『ハードボイルド・ワンダーランド』では、暗号を取り扱う「計算士」である私が、自らの脳に仕掛けられた時限装置の謎を解き明かしていく。

 

【世界の終り】

「あんたには落ちつき次第まず図書館に行ってもらうことになる」と門番は街についた最初の日に僕に言った。「そこには女の子が一人で番をしているから、その子に街から古い夢を読むように言われてきたっていうんだ。そうすればあとはその子がいろいろと教えてくれるよ」

 

図書館の「夢読み」として働くことになった僕の仕事は、一角獣の頭骨から古い夢を読み解くことでした。外界から隔絶され静謐な日々を送る人々の中で、僕はこの街の奇妙な完結性に疑問を抱くようになります。

 

【ハードボイルド・ワンダーランド】

「私はいちばん腕利きの計算士をまわしてくれるようにとエージェントに頼んだんだが、あんたはわりに評判が良いようですな。みんなあんたのことを誉めておったです。腕はいいし、度胸もあるし、仕事もしっかりしている。協調性に欠けることをべつにすれば、言うことはないそうだ」

 

ある日、私は老博士の秘密の研究所に呼び出されます。博士から「シャフリング・システム」を用いた仕事の依頼を受けるのですが、そこには世界の終りをもたらすという時限爆弾が仕掛けられていました。

 

【無意識の実相とは】

リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』という作品は、全編に渡って無意識の心象風景を描いているのですが、そこには神の摂理が届かない愛と平和と暴力と死が即物的に現れては消える激しい世界が表現されていて衝撃的なものでした。無意識の実相とはこのような心の完全なる自由が約束された《混沌》なのかもしれません。

 

ブローティガン村上春樹が敬愛する作家の一人なのですが、本書に描かれる無意識の景色はむしろ真逆の様相を呈しています。街の住民は記憶を奪われると共に、大切な何かを求める心の自由を失っています。なぜこのような街が生まれたのかという問いは一先ず置いておきます。『世界の終り』の章で主人公はこの街の抱える矛盾を探り当てようと画策していくのですが、ここでボクはふとこんなことを考えました。

 

  ボクらが生きている社会システムそのものを疑うことなど可能なのだろうか?

 

もしそれが可能であったとしても、社会システムの外部で生きていくことなどできるのでしょうか?それはまるで映画『マトリックス』でキアヌ・リーブスが仮想現実から目覚めた時のようなとんでもない事態を意味するのではないでしょうか。

 

ともかく物語は後半に向かって抜き差しならない状況に突入していくのですが、この続きは次のブログで。