村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑥おじいさんの思い出】(『誕生日のこどもたち』より)

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 トルーマン・カポーティの短編集『誕生日の子どもたち』から、少年の成長を描いた物語をご紹介します。本作は、22歳のカポーティが田舎に住む叔母にプレゼントした作品です。そのまま約40年間世に出ることなく眠っていたという、とても貴重な短編です。

 

『わしのことを覚えていてくれよな』

 主人公のボビーは、両親と祖父母が暮らす小さな農家で育ちました。家族がそろって暮らす穏やかな毎日でしたが、小学校へ入学する年、父親が新しい生活を始めるため親子三人はヴァージニアへ引っ越すことになります。別れの日が近づくと、祖父はボビーにこう語りかけました。

 

「お前はもうすぐここを出ていっちまうんだろう。お前がいなくなると淋しいよ。お前は知らない人たちのあいだに入っていくわけだが、わしのことを覚えていてくれよな。」

 

 僕は祖父を抱きしめ、もちろん戻ってくるよ、と約束しました。おじいさんもおばあさんも絶対に忘れたりしないよ、と。

 

【自由の代償】

 ヴァージニアでの暮らしにも少しずつ慣れ始めた頃、祖父から一通の手紙が届きます。封筒には、慣れない活字体で「ボビー様」と書かれていました。しかし、その手紙には祖母が亡くなったこと、そして一人残された祖父の深い寂しさが綴られていました。

 

 成長するということは、新しい世界へ踏み出すことです。新しい環境で経験を重ね、自分の人生を歩み始める一方で、それまで当たり前だった家族との時間は少しずつ遠ざかっていきます。この作品は、少年の成長に伴う「別れ」や「喪失」、そしてどこか拭いきれない「罪悪感」を通じて、自由を手に入れることの裏に潜む複雑な感情を描いています。

 

 短編集『誕生日のこどもたち』は、少年少女の純粋な心を通して、人の成長や孤独、愛情が繊細に描かれた内容が特徴的です。といっても、子ども向けのお伽噺とはまったく異なります。私自身、この短編集を読み進める中で、カポーティならではの凝りに凝った美文を理解するために、何度も立ち止まったり読み返したりながら、文学の奥深さを学ぶことになりました。

 

 これで、村上訳によるトルーマン・カポーティ作品のご紹介をすべて終えることができました。最後までお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございました。

 

「晩年のカポーティの肖像」

 

§追記§

村上春樹の3年ぶりの長編小説『夏帆』が発売されましたね! 早速ご紹介といきたいところですが、作品をより楽しんでいただくにはどうすればいいか・・・しばし思案中です。

 

【⑤無頭の鷹】(『誕生日のこどもたち』より)

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 トルーマン・カポーティの短編集『誕生日の子どもたち』から、幻想的でどこか不穏な空気が漂う作品をご紹介します。

『眠れぬ夜に』

 主人公のヴィンセントは、まるで海の底を歩いているような感覚でニューヨークの街をさまよっています。走るバスは魚のように見え、人々は水の中の影のように揺れる。そんな彼が探していたのは、「無頭の鷹」の絵を描いた女性でした。

 

眠れぬ夜には彼はグラスにウィスキーを注ぎ、無頭の鷹を相手に話をした。自分の人生のあれこれについて語った。俺は詩を書いたことのない詩人だ、と彼は言った。絵を描いたことのない画家であり、ただの一度も(嘘偽りなく)恋に身を委ねたことのない恋人だ。

 

 それは、自分が何者なのか分からず、人生の方向を見失った人間の告白そのものでした。「無頭の鷹」は、彼自身の姿を映し出す象徴です。

 

『あなたは知っているわよ』

 やがてヴィンセントは、絵を描いた女性DJと暮らし始めます。ある日、彼女は「デストロネリ」という謎めいた人物について語りました。

 

「その何とかさんはどんな顔してるんだい?」と彼は訊いた。(中略)「そうねえ」と彼女は静かに言って、彼の方に体を押しつけた。「彼はあなたに似てるし、私に似てるし、たいがいの人に似てるわ」

 

 彼女の言葉が示しているのは、誰の心にも潜む「もう一人の自分」。大人として生き延びるために諦めてきた夢、傷つけてしまった人々、置き去りにしてきた愛。そうした過去の断片が形を変えて目の前に現れます。

 

『年老いた自分の夢』

 ある夜、ヴィンセントは奇妙な夢を見ました。自分の背中に、年老いた自分がよじ登ってきて、どれだけ振り払おうとしても離れないのです。

 

行っちまえ、と若くてハンサムなヴィンセントは大声で叫んだ。しかし年老いた忌まわしいヴィンセントは四つん這いになって這いより、まるで蜘蛛のように彼の背中をもそもそと上がってくる。どれだけおどしても頼んでも打って叩いても、振り落とすことはできない。

 

 年老いたヴィンセントとDJの内なる少女が手を取り合うと、「無頭の鷹」は空へ飛び立ちます。しかし自由に飛び回ることができず、再び地上へと舞い戻ってしまいます。その瞬間、彼は悟りました。もう二度と、イノセントな世界には戻れない。人は現実を生きるしかないのだ、と。

 

【無頭の鷹が象徴するもの】

 心理学者の河合隼雄は、人間の無意識はイメージで語ると述べています。夢や象徴、他者への自己投影などは、心の深い部分から送られてくるメッセージです。

 

 作品に登場する「無頭の鷹」もその一つです。最初は漠然とした不安や喪失感の象徴でしたが、ヴィンセントがDJとの関わりや夢の体験を通して自分を見つめ直すうちに、その意味が少しずつ明らかになります。それは、成長の途中で誰もが経験する、「イノセントな世界との決別」でした。

 

 カポーティは、現実の俗っぽい世界に身を置きながら、気品あるイノセントな世界を求め続けた作家でした。幼少期の愛情不足、同性愛ゆえの孤独、そして名声と堕落のあいだで揺れ続けた人生。彼の作品に漂う痛みや幻想は、まさにその人生の傷跡から生まれたものに感じられます。

 

「ポーズをとるカポーティ」

出典:ハッチハウス・メディア・リミテッド

 

【走ることについて語るときに僕の語ること】

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 アテネでの初フルマラソン、毎年出場してきたボストン・マラソン、サロマ湖100kmウルトラマラソン、そしてトライアスロン。本書は、村上春樹が23年間にわたって走り続ける中で、自分の身体や心に向き合い続けてきた日々を綴ったメモワール(回想録)です。

 

『レースを積み重ねながら』

 村上が走り始めたのは、代表作『羊をめぐる冒険』を書き終えた頃でした。それ以来、ほぼ毎日走り、毎年欠かさずフルマラソンに出場してきたといいます。彼にとって「走ること」と「書くこと」は切り離せません。どちらも自分を鍛え、少しずつ成長していくための行為だからです。

 

僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねがながら、達成規準のバーを少しずつ高く上げ、それをクリアすることによって、自分を高めていった。少なくとも高めようと志し、そのために日々努めていた。僕はもちろんたいしたランナーではない。走り手としてはきわめて平凡な――むしろ凡庸というべきだろう――レベルだ。しかしそれはまったく重要な問題ではない。昨日の自分をわずかでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。

 

 小説家の仕事には孤独がつきものです。批判されたり、期待が裏切られたりすることもあります。そんな時、村上は走ることで自分を立て直してきたとも語っています。

 

【頭脳と身体は互いを支え合う】

 海外では、知性と身体能力は対立するものではなく、互いを支え合うものだという考え方が一般的です。一方、日本ではまだ「頭がいい人は運動が苦手」「運動する人は勉強が苦手」といった二分法が残っています。現役を引退したアスリートの活躍の場が限られていることも、その一例と言えるかもしれません。

 

 村上は、作家ジョン・アーヴィングと一緒に走りながらインタビューした経験を振り返り、強い身体的負荷の中でしか見えてこない感覚があると語ります。その感覚こそが作品の深みにつながっているのかもしれません。

 

『タイムが伸びなくなっても』

 年齢を重ねれば、記録が伸びなくなるのは当然のことです。けれど、それを嘆く必要はないと村上は語っています。

 

レースのタイムが伸びなくなっても、それはまあ仕方あるまい、走りながらそう考える。僕はそれなりに年を取ったのだし、時間は取り分をとっていく。誰のせいでもない。それがゲームのルールなのだ。川が外海に向かって流れ続けるのと同じことだ。そのような自分の姿を、言うなれば自然の光景の一部として、あるがままに受け入れていくしかないのだ。

 

 学生時代の体力を維持しようと、フィットネスに通ってきましたが、最近は軽めのエクササイズ・プログラムとヨガで終える日が増えました。そんな中でこの本を読むと、不思議と「また走ってみようかな」と思えてきます。速く走る必要もなく、誰かと競う必要もなく、昨日の自分よりもほんの少しだけ前に進めばいい。そんな気持ちを後押ししてくれる一冊でした。

 

【④あるクリスマス】(『誕生日の子どもたち』より)

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 本作は、トルーマン・カポーティの代表的な自伝的作品群である「少年バディー三部作」の一つです。主人公のバディーは作者自身を投影した人物とされ、『クリスマスの思い出』『感謝祭の客』と並んで、少年時代の思い出が描かれています。

 

 ※※短編集『誕生日の子どもたち』の掲載順なら、今回は【③クリスマスの思い出】のご紹介の番ですが、すでに本ブログで取り上げているので見送ります。※※

 

 物語の舞台は1930年代のアメリカ南部アラバマ州。バディーは親戚たちに育てられていて、離婚した父親とはほとんど会ったことがありません。

 

『たった一人でニュー・オーリンズへ』

 ある年のクリスマス、そんな父親から突然招待状が届きます。バディーは、生まれて初めて父親と過ごすクリスマスのため、たった一人でニュー・オーリンズへ向かうことになります。

 

僕は新しいスーツを用意してもらった。ラベルには僕の名前と住所を書いたカードがピンでとめてあった。迷子になったときのためのものだった。なにしろ僕はひとりで旅をしなくてはならなかったのだ。バスに乗って。

 

 父親の暮らすニュー・オーリンズは、バディーが育った南部の田舎とはまったく違う世界でした。華やかな街並み、自由奔放に生きる父親、そして次々と出会う個性的な大人たち。バディーは戸惑いながらも、新しい世界に少しずつ心を開いていきます。

 

【奇妙なクリスマス・パーティー】

 本作の背景には、努力と運があれば誰でも成功できるという「アメリカン・ドリーム」の価値観が読み取れます。都会には成功を夢見る人々が集まり、一方で故郷のアラバマでは素朴で穏やかな暮らしがありました。カポーティは、詩的な語り口で、この二つの世界を対照的に描いています。

 

 物語の中でも特に印象的なのが、バディーが参加する少し奇妙なクリスマス・パーティー。そこには華やかさだけではなく、どこか不穏な空気も漂っています。バディーはその体験を通して、父親に対する信頼が揺らぐと同時に、大人の世界が決して単純ではないことを学んでいきます。

 

 後にカポーティ自身は作家として成功し、華やかな社交界で生きるようになります。本作には、そんな彼の人生の原点ともいえる記憶が刻まれています。その意味で、本作は単なるノスタルジックな物語として読むことは出来ません。父親への憧れと失望、都会への期待と戸惑い、そして少年時代の終わりが描かれた、限りなく実話に近いクリスマス物語でした。

 

https://ids.si.edu/ids/deliveryService?id=NPG-NPG_91_89_29-000002「ソファーでくつろぐカポーティ」

出典:スミソニアン協会ナショナル・ポートレート・ギャラリー

 

【②感謝祭の客】(『誕生日の子どもたち』より)

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 トルーマン・カポーティの短編集『誕生日の子どもたち』から、「復讐よりも赦し」 をテーマとした心温まる物語をご紹介します。

 

 物語の舞台は1930年代のアメリカ南部アラバマ州。主人公は少年バディーです。バディーは、学校でオッド・ヘンダーソンという大柄な少年からたびたびいじめを受けていました。そのため、彼の心の中には怒りや憎しみが溜まっていました。

 

『あの子を感謝祭のディナーに』

 ある日、感謝祭を前にして、一緒に暮らす年配の従妹スックが思いがけない提案をします。それはオッドを感謝祭のディナーに招こうというものでした。

 

「それでもね、お前には幸福になってもらいたいんだよ、バディー。強くなって、広い世界に出ていってほしい。そのためにはお前はオッド・ヘンダーソンみたいな人たちとおりあいをつけて、逆に友達にするくらいじゃないとだめなんだ」「友達になるって!あんなやつとは世界が終わったって友達にはなれないね」「頼むよ、バディー。あの子を感謝祭のディナーに招待しておくれ」

 

 バディーにとって自分を苦しめてきた相手を招くなど到底受け入れられません。それでもスックは、人を憎み続けることは自分の心も傷つけてしまうことを知っていました。だからこそ、バディーに相手を理解する機会を与えようとしたのです。

 

『企まれた残酷さ』

 オッドは招待を受け入れ、感謝祭の席にやってきます。一方のバディーは、これまでの恨みを晴らす絶好のチャンスを手に入れます。彼は皆の前でバディーに恥をかかせようとしましたが、その結果として浮かび上がったのは、オッドの誠実で素直な人柄。自分の行いの卑しさに気づいたバディーは、恥ずかしさに耐えられず家を飛び出します。

 

「バディー、私の言うことをよく聞いておくれ。世の中にはたったひとつだけ、どうしても赦せない罪がある。それは企まれた残酷さだよ。ほかのことはなんだって赦せるかもしれない。でもそれだけは別だ。私の言っていることはわかってくれるかい、バディー?」

 

 隠れていたバディーを見つけ出したスックは、優しく彼を諭しました。それは、相手が傷つくと分かっていながら、わざと苦しめること。つまり、計画された悪意をもって人を傷つける行為の罪深さです。バディーはこの出来事以降も、自分の心の中にある憎しみや復讐心と向き合いながら成長していきます。

 

 本作を読んでいて興味深かかったのは、赦しというテーマだけではなく、作品の背景にある特徴的な価値観でした。

 

 よく、日本は「恥の文化」、欧米は「罪の文化」と言われます。もちろん実際にはそれほど単純ではありませんが、日本では「人からどう見られるか」が重視される傾向があり、欧米では「誰も見ていなくても、良心に反することは悪い」という考え方が根付いています。

 

 スックが語る「企まれた残酷さ」という考え方には、その一端を見ることができます。大切なのは世間の評価ではなく、自分の行為が本当に正しかったのかという問いです。それを普遍的な原理によって説明しようとする欧米人特有の論理性が感じられます。

 

 海外文学の魅力の一つは、こうした異なる文化や価値観に触れられることではないでしょうか。同じ出来事でも、その受け止め方や善悪の判断には文化ごとの違いがあります。文化が違えば、人が何を恐れ、何を大切にするかも変わります。

 

 本作は、赦すことの難しさと尊さを描いた作品です。そして同時に、人間の良心や道徳について考えさせられる物語でもあります。そして、トルーマン・カポーティの優しさが溢れる作品でした。

 

「マリリン・モンローと踊るカポーティ」

 

【①誕生日の子どもたち】(『誕生日の子どもたち』より)

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 トルーマン・カポーティの短編集『誕生日の子どもたち』から、南部の小さな町に突然現れた少女を通して、人々の憧れや幻想、そして成長とともに失われていく純粋さを描いた物語をご紹介します。

 

 舞台は1930年代のアメリカ南部、アラバマ州の小さな町。そこへ10歳の少女、ミス・ボビットが母親とともに引っ越してきます。彼女は派手な服を着て、大人びた言葉を話し、町の人々を驚かせます。

 

『ジェントルマンというものは』

 ある日、少年たちが黒人の少女をからかっていた場面で、ボビットは彼らを厳しく叱りつけます。

 

「誰もが知っていることですが、ジェントルマンというものはレディーを護るためにこの世界に置かれたのです。あなたがたはメンフィスで、ニューヨークで、ロンドンで、ハリウッドで、パリで、こんなことが行われていると思いますか?」

 

 その気品ある叱責に少年たちは圧倒され、からかわれていた少女も次第にボビットと行動を共にするようになります。最初は奇妙に見えたこの二人の組み合わせも、町の人々に少しずつ受け入れられていきました。

 

【世界を輝かせる一瞬】

 ボビットは、自分は映画界へ行く特別な存在だと語って支援を要求します。その言葉が真実なのか、ただの空想なのかは分かりません。しかし、閉鎖的な田舎町で暮らす人々にとって、彼女は「外の世界の輝き」を運んでくる存在でした。芝居がかった振る舞いも、どこか魅力的で、人々は彼女に淡い憧れを抱きます。

 

 しかし物語は、思いがけない形で幕を閉じます。学校に通うことを拒み、「悪魔との取引にも応じる」と言ってはばからないボビット。彼女は本当に特別な少女だったのか。それとも、大人たちが勝手に幻想を重ねていただけなのか。物語は最後までその答えを示しません。

 

 私はこの作品を読みながら、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリを思い出しました。

 

 15歳の少女が国連で堂々と演説し、大人たちに向けて強いメッセージを発した姿が今でも強烈な印象として残ります。世界は彼女の言動に注目し、同時に「子どもはどこまで社会参加できるのか」「学ぶ権利と政治参加の関係はどうあるべきか」といった議論が巻き起こりました。

 

 しかし現実には、そうした本質的な議論よりも、彼女の個人的なパーソナリティーへの批判や、不毛な政治的対立が先行してしまう結果となり、残念でなりません。

 

 カポーティは本作の中で、「無垢な存在が放つ一瞬の輝き」と「その輝きが失われていく残酷さ」を描きました。その構図は、現実の世界で起きた出来事とオーバーラップして見えます。だからこそ、カポーティの物語を読むとその洞察の深さに唸らされずにはいられません。

 

「初期のカポーティの肖像」



【③クリスマスの思い出】(『ティファニーで朝食を』より)

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 トルーマン・カポーティの短編集『ティファニーで朝食を』から、作者自身の幼少期の体験をもとにした作品をご紹介します。

 

 舞台は1930年代のアメリカ南部アラバマ州。主人公は7歳の少年バディーと、60代の親戚の女性です。二人は親族の家の片隅で、寄り添うように暮らしています。

 

『クリスマスのフルーツケーキ』

 女性は世間から見れば少し風変わりな人物でした。しかしバディーにとっては、誰よりも心を許せるかけがえのない存在です。二人には、毎年欠かさず続けている特別な習慣がありました。それは、クリスマスに向けてフルーツケーキを焼くことです。

 

「都庁舎の鐘の響きがきりっとして冷やっこかったもの。鳥の声だって聞こえなかった。そうだよ、みんなもっと暖かいところに移っちゃったんだよ。ねえバディー、いつまでもパンなんて食べてないで私たちの荷車をもってきておくれよ。私の帽子も捜しておくれ。これから三十個もケーキを焼かなくちゃらならないんだよ」

 

 しかし、そうした穏やかな暮らしは長くは続きません。バディーは寄宿学校へ行くことになり、二人は離ればなれになります。「子ども時代の終わり」と「大切な人との別れ」の切なさが余韻となって残ります。

 

【カポーティの原風景】

 カポーティは1924年、アメリカ南部のニューオーリンズで生まれました。両親は早くに別居したため、母方の親族に預けられて育ちます。幼い頃の彼は、繊細で内向的だった一方で、言葉への感受性や観察力は早くから際立っていたと言われています。

 

 彼の作品には「孤独な子ども」「風変わりな人々」「失われた純粋さ」といったテーマがたびたび登場しますが、それらは南部での幼少期の記憶と深く結びついています。本作は、その影響がもっとも現れた作品と言えるでしょう。カポーティ自身も、この物語について「あれはほとんど事実だ」と語っています。

 

 本作は、ロマンチックな表現が散りばめられた文章と、アメリカ文学特有の三幕構成による作品です。しかし、ひと続きの段落がとても長く、それらをひと息で読み切るには集中力と忍耐力が必要です。私自身も、初読の時は内容が頭に入らず、何度も中断を余儀なくされました。

 

 それでもあきらめずに頭から読み返し、切れ目なく読めるようになると、論理の確かさや展開の妙味が少しずつ浮かび上がってきます。そして最終的に、必然的な結果が積み重なってクライマックスに達していくゾクゾク感が、心地よく感じられるようになりました。

 

 本ブログでは、翻訳作品の場合、主に作品の意図や背景のご紹介に徹して、原文と訳文の間で齟齬が生じがちな文章表現に関する話題は極力避けてきました。しかし本作からは圧倒的な文章力が感じられるため、今回はその魅力についても触れました。ぜひ、本書を実際に手に取り、場合によっては私のように何度も読み返しながら、カポーティの素敵な言葉の響きを味わってみてください!