村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑤バベルの塔のクランシー】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 《愛は負けても、親切は勝つ》という言葉を残したのは、アメリカの作家カート・ヴォネガットです。愛や正義は時に失敗や挫折に直面することがあるのに対して、親切や思いやりは軽やかに情勢を打開するという考え方です。本作は、ある善意の人物が遭遇したモラルの衝突を通じて愛と親切の行方を描きます。

 

『まるでバベルの塔のようだ』

 クランシー氏はマンハッタンの高級アパートメントでエレベーター係の職を得た。彼が暮らす貧しい地区からそれほど離れていない場所にあるが、経済的にも、モラル的にも、クランシー氏とはまったく異なる人種が住んでいる。それでも、田舎育ちで培った職務に対する実直さと、あけっぴろげな親切心を発揮しながら居住者たちに受け入れられていった。

 

夕方に帰宅すると彼はまるで帰還した旅行者のように、自分がその日に目にしたものについてノーラ(=妻)に語るのだった。プードル犬や、カクテル・パーティーや、子供たちとその乳母たちが彼の関心を引いた。あそこはまるでバベルの塔のようだよと彼はノーラに言った。

 

 ある日、居住者の一人であるロワントゥリー氏が知人を紹介し、彼と一緒にここに暮らすと語った。クランシー氏は二人がゲイカップルであることに気づくと、旧世界のモラルをもってエレベーターの搭乗を拒否した。管理人のとりなしで解雇は免れたものの、その後もクランシー氏のお節介は止まらない。

 

【他者との共存】

 今でこそアメリカはLGBTの権利で世界の覇権を握っているように見えますが、1950年代初頭においては、同性愛やトランスジェンダーは非合法で、社会的にも広く非難される対象でした。物語の中でクランシー氏が衝動的にゲイカップルを拒絶したのも、当時の社会通念からすれば仕方のないことでした。

 

 クランシー氏はアパートメントのいざこざに介入するうちに体調を崩し、入院を余儀なくされます。ロワントゥリー氏が集めた多額のお見舞いを受け取りますが、この倒錯者に対してどのような態度をとるべきか決めかねます。自分が知り得ない愛や正義がこの現世には存在し、半ば盲目のままに今日まで生きてきたわが身を振り返るクランシー氏。次にロワントゥリー氏と出会った時にはもう何も言わないでおこうと彼は心を決めます。

 

 村上春樹の解説によれば、同性愛は作者のジョン・チーヴァー自身が抱えてきた悩ましき問題でもあったようです。それを罰せられるべき罪悪と見なす理性と、自然な求めとする感情の二つの想念が、クランシー氏とロワントゥリー氏という対立する人格を作り出しました。物語の終盤で両者は共に敗北感を滲ませていますが、そこには意見の異なる他者との共存を探る寛容性の芽生えが感じられます。

 

 さて、冒頭に触れた《愛は負けても、親切は勝つ》という表現が本作にあてはまるのか、私には少し疑わしく思えてきました。勝利の喜びの無い勝ちに対しては、もっと別の言い方がふさわしいようにも思えますが・・・今回はひとまずここまで。