村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑥治癒】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 人生における中間点やピークを指して「人生の正午」と呼ぶとき、それは、過去の経験を振り返り、未来の方向性を見極めるための転換期を意味します。本作は、そんな「人生の正午」の人物が遭遇した不思議な話です。

 

『私にかまうな!』

 それはある夏の日のこと。「私」と妻のレイチェルは言い争いをし、彼女は子供たちを連れて家を出て行ってしまった。レイチェルの出奔は過去に二度あったが、いつも彼女からの電話に折れるかたちで復縁してきた。それでもぶり返す惨めな日々を今度こそ終わらせるため、電話には一切出ないことにした。

 

 家族が去って二週間。「私」は『治癒』と称する無為の時を過ごしていたが、ほどなくして不眠に悩まされるようになる。夜中の三時に目を覚まし、居間で本を読んでいると、自分が誰かに見られている気配がする。振り向くと、正体不明の徘徊者が窓の外からこちらの様子を伺っていた。幻覚ではない証拠に、次の夜も同じ事が繰り返された。

 

「消え失せろ!」と私は叫んだ。「彼女は行ってしまった!レイチェルはもういない!ここにはみるべきものなんてないんだ!私にかまうな!」そして窓に駆け寄ったが、男は既に姿を消していた。

 

 翌朝の通勤列車を待つ乗客の中に「覗き屋」と思しき人物を見つけた。髪が白くなりかけた男と、美しい娘と、その奥さんが一緒に立っている光景は、「私」の気持ちをもっと落ち込ませる。彼はいったい何が目的で夜の徘徊をしているのだろう?

 

【生産性vs停滞】

 E・H・エリクソンの『心理社会的発展理論』によれば、「人生の正午」には《生産性vs停滞》と称する課題が生じます。それは、家族や仕事、社会への献身が求められる生活のなかで引き起こされる一時的な停滞感や虚無感です。しかし、そうした献身に自分の生産性や存在意義を見出し、次世代のために価値あるものを残すことで充実感や満足感を取り戻すことが出来るとされます。

 

 物語の後半から主人公は健全な日常を逸脱しはじめ、その結果、自己の深刻な虚無感と向き合うことになります。おそらく「覗き屋」が見つめていたのと同じものを。家族への献身に意義を見出せず、自己中心的な思いに囚われていた自分。いまさら若い頃のような行きずりの甘美な出会いなど叶うべくもない。神妙な面持ちの主人公のもとに突然電話のベルが鳴り、復縁を求めるレイチェルの涙声が飛び込んできます・・・

 

 さて、再びエリクソンの理論から。この後に続く人生の晩年には、未達の夢や未解決の課題の受容と和解という試練が私たちの行く手に待ち構えています。そうした物語のご紹介は、いずれまた別の機会に。