自分自身の認めがたい部分、人生において生きてこられなかった側面をユング心理学では《影(シャドウ)》と呼びます。それが何であるかは、現実に存在する他者に投影されて目の前に現れた時にはっきりとします。また、人は《影》を理解し、自己に統合することで成長を遂げますが、その過程で心に深い傷を負うこともあります。
今回ご紹介するのは,、そんな《影》の問題を背景とした作品です。
《あらすじ》
僕と大沢さんは空港のレストランでとりとめのない世間話をしていた。大沢さんがボクシングジムに通っていたという話題から、これまでに喧嘩をして誰かを殴ったことはありますか、と僕は訊ねてみた。その目からほんの一瞬ぎらりとした光が放たれる。大沢さんへしばらく沈黙した後で、一度だけその男を殴ったためにつらい体験をしてしまった話を語り始めた。
『理屈じゃありません』
「誰にだって、どんな人にだって一生のうち一度くらいはそういうことがあるんじゃないかと思います。理屈抜きで誰かを嫌いになることがです。僕は意味もなく他人を嫌ったりする人間ではないと自分では思っていますが、それでもやはりそういう相手っているんです。理屈じゃありません。」
大沢さんから見たその相手(青木)は、頭の回転が早く世渡り上手な一方で、人間的には浅薄で執念深い男だった。ややステレオタイプに描かれた青木の人物像に、自己の認めがたい《影》が投影されていることは否めない。若き日の試練を乗り越えた話のあとで、彼は大きなため息をついて再び語り始めた。その後の人生について、本当に怖いのはどのような人間かについて。
【全体主義の起源】
政治学者のハンナ・アーレントは著書である『全体主義の起源』の中で、ナチズムやスターリニズムといった全体主義が孤立化した大衆によってもたらされたとして、これを民主政治の新しい問題として位置付けました。
例えば、社会の近代化によって孤立し価値観も信念も失った大衆は、何でもすぐに信じるけれども、同時に本質的には何も信じていないのだと彼女は指摘しています。このような沈黙する大衆は、対話による合意形成が無くとも、自発的に同調するようになるというのです。
物語の中で大沢は、青木のような存在を認めることで自己の人格を大きく成長させました。しかしその一方で、青木の言い分を無批判に受け入れて信じてしまう連中への不信感だけは拭うことができず、心の痛みと苦しみが続きます。彼が考える本当に怖い人間とは、このような価値観や信念を持たない沈黙する人々を指します。しかし、それもまた、私たち一人ひとりの中にある《影》を投影したものに過ぎません。
多種多様な情報が飛び交う複雑極まりない世界で、私たちは今まさに孤立化し、沈黙を余儀なくされている。
というのが今回の私の感想です。ただ、この作品が全国学校図書館協議会による高校生向けの教材に採用されたためか、ネット上には実に様々な解釈が見受けられます。正義感に溢れた意見もあれば、語り手のトリックを見破ろうと画策するもの、隠された裏テーマを追いかける野心的なもの、なかには明らかな誤読もあって百花繚乱といった様相です。
改めて読み比べてみると、私の作品理解は少数のひねくれものの部類に当てはまることがよく分かります(笑)。奇をてらった謎解きに走りがちな面は反省すべきですが『独自の切り口』を掲げたブログなのでどうかお許し頂きたい!
【誤解の総体】
村上春樹は彼の作品のなかで次のように語っています。
理解というものは、常に誤解の総体に過ぎない。(『スプートニクの恋人』より)
正しさばかりに囲まれていては、私たちの思考は理解に向けて働きません。誤解がたくさん集まることによってそこから本当の正しい理解が立ち上るというなら、私の怪しげな書評もその礎のひとつに違いないのではありませんか(笑)
というわけで、本年最初の投稿となりました。今年もよろしくお願い致します(^^)/