村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【シェエラザード】(『女のいない男たち』より)

Amazonより

 本作は、謎の事情を抱えて潜伏する男と「連絡係」として彼の世話をする女の話です。物語の主人公は、女性信者に支えられながら2か月間の逃亡生活を送った地下鉄サリン事件の実行犯である林泰男を彷彿とさせます。

 

『前世はやつめうなぎ』

 羽原(はばら)はその女をシェエラザードと名付けた。彼女は彼より4歳年上の35歳で、小学生の子供が二人いる専業主婦。週に二度、羽原の住む「ハウス」を訪れて食料や雑貨の補充を行った。そして、『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードのように、性交のたびに謎めいた物語をひとつ聞かせてくれた。例えばこんな話。

 

「私の前世はやつめうなぎだったの」とあるときシェエラザードはベッドの中で言った。(中略)「というのは、私にははっきりとした記憶があるの、水底で石に吸い付いて、水草にまぎれてゆらゆら揺れていたり、上を通り過ぎていく太った鱒を眺めたりしていた記憶が」

 

『愛の盗賊』

 その日、シェエラザードは十代の頃の話を始めた。彼女は同じクラスの男の子に恋をしたが、彼の方は彼女のことなど目もくれない。そこで彼女は学校を休んで男の子の家に行き、玄関マットの下に鍵を見つけると無人の家に侵入した。彼女は部屋のなかをひと通り物色し、そこから鉛筆を一本持ち帰る。

 

「そう。使いかけの鉛筆。でもただ盗むだけではいけないと思った。だってそれだとただの空き巣狙いになってしまうじゃない。それが私であることの意味がなくなってしまう。私は言うなれば『愛の盗賊』なのだから」

 

 彼女はタンポンをひとつ、机の一番下の抽斗の奥に置いておくことにした。以来、彼女は危険を承知で次々と空き巣狙いを繰り返していく・・・が、続きは次回の訪問に持ち越された。その話はいったいどんな方向に進んでいくのだろうか? 羽原は一刻も早く続きが聞きたくなった。

 

【カルトを生み出すシステム】

 1980年代にオウム真理教が編み出した「ヨガ・サークル」と「ジャンクな物語」の取り合わせは、少なからぬ若者たちの心を捉えました。教祖の麻原や幹部たちの処分が下されてもなお信者たちが活動を続けている現状は、カルトを生み出す「システム」が相変わらず機能していることを意味しています。そうした「システム」こそが、私たちが最も警戒すべき脅威ではないでしょうか。

 

 シェエラザードが差し出す人肌の温もりと興味そそられる物語は、羽原にとって『現実を無効化してくれる特殊な時間』になります。その代償として自分の肉体と精神の自由を「システム」に委ねる構図は、カルト教団が信者たちを支配する仕組みそのもの。羽原は空っぽの心で『やつめうなぎ』の一員になった自分を思い浮かべますが、いつかそれはとんでもない「狂気」にすり替わっていくかもしれません。

 

 さて、シェエラザードが語った『空き巣狙い』の続きは私も初読の時から気になっていましたが、2021年に濱口竜介監督の独自解釈による斬新な結末にお目にかかることが出来ました。気になる方は映画「ドライブ・マイ・カー」をチェックしてみてください。