村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【映画:ドライブ・マイ・カー】

 『映画:ドライブ・マイ・カー』をご紹介します。この作品は皆さんご承知のとおりアカデミー賞の国際長編映画賞の受賞作です。原作はもともとオバマ元大統領の一押し作品ということもあって、アメリカ国内では一定の評価を得ていたようです。映像化に際して画期的なアイデアと独自の解釈を取り入れたことが、この度の受賞に繋がったのではないでしょうか。

 

《あらすじ》
の突然の死から二年後、家福は演劇祭の舞台演出家として招聘を受け広島を訪れる。そこで専属ドライバーにみさきを紹介され、彼女の運転で宿舎と仕事場の移動することになった。舞台のオーデションで高槻に出会った家福は、亡き妻との関係を疑いつつも彼を主役に抜擢した。家福とみさきと高槻。奇妙なトライアングルの日々が始まる。

 

『本当に他人を見たいと望むなら』

高槻「ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。」

 

劇祭で上演される『ワーニャ伯父さん』の舞台裏で、演出家の家福と俳優の高槻の反転した立場の物語が進行していた。俳優としても社会人としても未熟なはずの高槻の口から、家福すら知り得ない亡き妻についての深い理解と一途な想いの告白が成される。

 

【私たちはみな演じる】

 この映画は《演じる》というテーマに独自の切り口で迫ります。例えば哲学者のカントは「演じる」ことについて次のような言葉を残しています。

 

人間はすべて、文明が進めば進むほど俳優になっていく。つまり、人間は他人に対する尊敬と好意、典雅と無私の風を装うが、それにたぶらかされる人はいない。(『人間学』より)

 

 内発的な理由なく、約束事に従ったり言ったりすることが《演じる》ということの意味なら、私たちはみな《演じる》ことに日々の大半を費やしています。カントが言うようにそれは時代が進むにつれて巧妙になり、本心を表す行為や言葉は封印され、人は人生の舞台の表と裏で二重生活を送っています。

 

 映画の中で、高槻の中からこれまでとはまったく違う人格が現われる場面に驚かされます。それは何かを演じながら生きてきた私たちの隠された心でしょうか。それとも人間的という虚飾に彩られた幻想でしょうか。この場面の岡田将生の演技は真に迫っていて輝いて見えました!その後の急展開にもこれまた驚かされますが・・・。

 

【映像化のアイデアと独自の解釈】

 濱口監督は、演劇舞台の表と裏を同時進行させることで、重層的な人格の表出を映像化していて、まるでドキュメンタリーを見ているようなリアリティが漂っています。同時にこの映画は、原作が投げかけた謎にある種の答えを提示しています。妻が生前に語ったとされる挿話は、原作の『シェエラザード』には無い深淵な解釈を加えていますし、『ワーニャ伯父さん』の劇中劇はこの物語を見事なエンディングに導いています。

 

 そもそも村上作品は、様々な推論の余地を残す未完成なところに尽きない魅力が潜んでいます。私たち読者は物語に補助線を引きながら、(やや手前勝手とも言える)独自の講釈を楽しんできました。私もいつか原作の『ドライブ・マイ・カー』をご紹介する機会が巡って来た時には、ブログに立ち寄る人をあっと驚かせるような切り口でご紹介したいと思います。やる気がもりもりと湧いてきましたぞヽ(^o^)丿