村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑨頼むから静かにしてくれ】(『頼むから静かにしてくれⅡ』より)

Amazonより

【カーヴァー・カントリー】

 レイモンド・カーヴァー文学史において重要とされる理由は《カーヴァー・カントリー》を発見したことにあります。村上春樹はそれについて次のようにコメントしています。

どこにでもいるごく当たり前の、そして良心的に生きようと努力しているはずの人間が、何かの原因によって、やはりどこにでもあるような人生の落とし穴に落ち込んで、にっちもさっちもいかなくなっている光景、それが「カーヴァー・カントリー」の光景である。(『頼むから静かにしてくれ 解題』より)

 

 モダンからポストモダンへの変遷を経た時代にも、文学は机上の倫理や教条主義に囚われ、生身の人間性に目が向けられることはありませんでした。カーヴァー作品に対して「労働者階層の暮らしをリアルに描いたに過ぎない」といった旧態依然とした見方も存在しました。いずれにせよ《カーヴァー・カントリー》の登場によって、文学は新たな人間像の探求に向けて舵を切ります。

 

 さて、今回ご紹介する本作は3部構成になっています。これまでのように断片的に切り取られた超短篇ではなく、物語の背景・展開・結末がしっかりと書き込まれています。それでいて緩んだところがなく、最後まで一気に読ませます。

 

 第1部:父親譲りの真面目さを受け継ぐラルフは、結婚し、家を買い、子供を二人授かるが、些細な日常会話から妻の不貞疑惑が判明する。怒りと悲しみを暴走させながら、行く手を遮る妻を突き飛ばした。

 

 第2部:家を飛び出したラルフは、夜の街をあてもなく放浪する。酒場を渡り歩き、カード・ゲームで持ち金を使い果たし、裏道では黒人に殴り倒される始末。彼は妄想する。世界はむき出しの肉欲によって崩壊しつつあると。

 

 第3部:ラルフは明け方とぼとぼと家に戻る。自分はどうすればいいのか? 身のまわりのものをまとめて出ていくべきか? しかるべき離婚手続きを進めるべきか? 子供たちが起きてくると彼は急いでバスルームに逃げ込み、鍵を掛けた。

 

『向こうに行ってくれ』

「お父さんはいるの?」というマリアンの声が聞こえた。「お父さんはどこなの、バスルーム?ねえラルフ」「ママ、ママ!」と娘が叫んだ。「お父さんたらお顔に怪我してるのよ!」「ラルフ!」と言って、彼女はドアノブを回した。「ラルフ、中にいれてちょうだい。お願い。あなたに会いたいのよ、ラルフ。お願いだから」「向こうに行ってくれ、マリアン」と彼は言った。

 

 ラルフの心に生じた妄想と、温かい家族のあいだには、あまりにも大きなギャップがあります。「どうしてこんなことになったのか」「何が彼をここまで追い詰めたのか」という問いが本作のテーマでしょうか? しかし本作にその答えは示されません。男は今の自分をとらえている変化に目を見張り、ただ『頼むから静かにしてくれ』とつぶやくばかりです。

 

 ラルフが深夜の町で遭遇した出来事は、彼のむき出しの魂が直視した精神世界です。それが人の生にとって圧倒的な重みをもつ証として、日常世界との間にできたギャップは、彼の心と体に具体的な変化をもたらします。私たち読者はこうしたカーヴァーにしか描けない物語に心打たれた後で、今の自分を振り返り「どこにでもあるごく当たり前の光景」のかけがえのなさに気付かされます。

 

 長く続いたレイモンド・カーヴァーの作品のご紹介はこれで一区切り。短編集『頼むから静かにしてくれ』のあとにも文学史に残る名作が次々と誕生するのですが、いずれまた読解力をもっと磨いてご紹介したいと思います。今回のご紹介で、彼の作品に少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。