Amazonより
カーヴァー作品には、70年代のアメリカの労働者階級の困窮がリアルに描かれています。村上春樹はそれについて『それまでのアメリカ文学においてはほとんど描かれなかったものだし、もし描かれたとしても教条主義的な色彩を帯びたものに限定されていた』とコメントしています。カーヴァーはどのような意図でこうした光景を描いたのでしょうか?
本作に登場する夫婦は贅沢で無計画な生活がたたり、自己破産に追い込まれています。夫のレオは失業中に浮気をしていて、妻のトニの好きものぶりも加わり、この先の夫婦関係は波乱含み。誇張された部分もありますが、典型的なブルーカラー階級の人々の転落が描かれています。
『来週の今頃を見てみろってんだ!』
夫婦は、弁護士から今日のうちにコンヴァーティブルの自家用車を売ってしまわないと裁判所に没収されると助言を受けた。そこで、トニが色仕掛けで少しでも高く売りつけようと中古車屋に向う場面から物語は始まる。
「また風向きも変わるさ!」と彼は声をかける。彼女はもう車寄せのところに行っている。「月曜からまた二人でやりなおそうや。俺、本気だよ」アーネスト・ウィリアムズ(=トニの浮気の目撃者)は二人を見て、後ろを向き、ペッと唾を吐く。彼女は車に乗り込み、煙草に火をつける。「来週の今頃を見てみろってんだ!」とレオはもう一度そう叫ぶ。「こんなのもう昔話になってるんだから」
債権者たちに口出しされる前に月曜日の裁判所の審問を乗り切れば、レオとトニを苦しめた借金はチャラになる。切羽詰まった状況のなかでの夫婦の長い一日が描かれる。
【にんげんだもの】
物語は、このあと「今日中に車が高く売れるか?」「成り行きで彼女が一線を越えないか?」などとやきもきしながら妻の帰りを待つ夫の情けない男ぶりが描かれています。『何か用かい?』という表題のセリフは、中古車屋と彼が出くわしたときの噛み合わない会話の一部であり、本作には最後まで教条主義的な理念など登場しません。
矛盾するように聞こえるかもしれませんが、ここでは文学に道徳や不道徳を問うべきではないことが、高い道徳的な見地から示唆されています。時に人はこうした物語に自分自身の姿を映し出すことで、心ならずも困った状況に置かれた時のモヤモヤに「語る言葉」と「物語性」を見出すでしょう。そのとき、「読むという行為」は、ささやかな気づきと癒しをもたらすのではないでしょうか。
自己破産という特殊な状況にそのまま自分を投影することは出来ないものの、切羽詰まった事態に追い込まれた男の心境にどことなくシンパシーを感じました。こうしたカーヴァー独特の世界観に出会うと、誰かが何処かでつぶやいた「にんげんだもの」という声が聞こえてくる気がします。
§追記§
村上春樹に関心のある人々にとっては恒例の「アレ」の時期がやってきました。またしても受賞は逃しましたが私はあきらめきれません。誰にたずねられるわけでもありませんが「来年の今頃を見てみろってんだ!」と一人心の中で繰り返しています( ゚Д゚)