村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【④鴨】(『頼むから静かにしてくれⅡ』より)

Amazonより
 本作は初期に発表されたものではありますが、多くの暗示や謎に満ちた難解な作品です。一度読んだだけで何かを掴むことができたなら、あなたは相当の強者か、もしくは私と同じ思い込みの激しい妄想家ですね(*_*)

 

 物語には製材所に勤める男とその妻が登場します。カーヴァー自身もこの作品を発表する数年前まで製材所で働いていたそうです。作家になる夢を追いながら、生活の為に費やされる肉体労働の日々。随所に描かれるリアルな生活描写は、カーヴァーの実体験が感じられます。

 

『製材所のボスが死んだ夜』

彼は言った。「そろそろここを離れたいんだ。ここにはずいぶんと長くいたよ。生まれた土地に戻って、みんなに会いたい。それともオレゴンあたりに行ってもいい。あそこはいい土地だからね」

 

の日、激しく雨が降る中を製材所へ出掛けた夫はすぐに帰ってきた。ボスが心臓発作で急死したために仕事ができる雰囲気ではなくなったらしい。その夜、ベッドのなかで彼は妻に向って「この土地から出ていきたい」と切り出した。

 

【名状しがたい人生への不安】

 巻末には訳者の村上春樹が解題がついていて、読み解きのヒントになると思われるので少し引用します。

 

的確にして要を得た描写、生活の生々しさ、名状しがたい人生への不安。ところどころで無骨さが顔をのぞかせるが、そこにはそれなりの奇妙な味わいがある。(『頼むから静かにしてくれ解題』より)

 

 「的確で要を得た描写」や「生活の生々しさ」はそれなりに読み取れますが、「人生の不安」はどこに描かれているでしょうか? カーヴァーは本書のなかで「将来を憂えた」「不安を覚えた」などといった心境を一々書いたりはしていません。では、何処でそのことが分かるのでしょうか。

 

 仕事のない時間を持て余した彼は何気なく『アメリカ国民愛好詩選』を手に取り、物思いにふける。妻は彼の視線が自分に注がれていると勘違いして、夫婦の会話を繰り広げる。反射的に彼もその会話に応じる。『そろそろここを離れたいんだ』と口にしたその夜、彼は雨の音に混じった『その音』を聞く。

 

 唐突に登場した『その音』が何を意味するのか分かりませんが、私たち読者はこうした情景描写の行間に何かが隠されているのをひしひしと感じることでしょう。名状しがたい不吉で不安な何かが『その音』となって男の周りを取り囲んでいる異様な情景を感じとれたなら、まずは本作のキモの部分を捉えた、と言っていいのではないでしょうか。

 

 さて、ここからは私の勝手な妄想です。本作を執筆している頃のカーヴァーは、妻と子供を抱えて望まない仕事で糊口をしのいでいました。作家としての類まれなる才能を自覚していた彼の胸中には、職業作家への憧れがあったと思われます。男が手にした『アメリカ国民愛好詩選』にそのことが象徴されています。

 

 もしも、その後の敏腕編集者のゴードン・リッシュとの出会いがなかったら、初短編集『頼むから静かにしてくれ』が識者の目にとまり、全米図書賞にノミネートされなかったら、彼は製材所勤めやガス・スタンドの給油係や病院の雑用係や便所掃除やモーテルの管理人といった仕事を続けていたかもしれません。

 

 本作を執筆していた当時のカーヴァーはまだ漆黒の闇の中に留まっていました。それがどれほどの苦しみであったかは、私のような凡人には計り知れないものがあります。そうした思いは氷山の一角のようにしか描かれず、真実の大半は水面下に沈められています。しかしだからこそ、物語は普遍性を獲得し、読者の想像力を刺激し、人生の不安に寄り添う作品になり得ているのではないでしょうか。