村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年】

Amazonより

 村上作品の特徴は、日常を飛び越えて幻想的な世界に引き込む「つかみ」の強さにあります。読者はその不思議な読書体験を通じて、あたかも日常の矛盾や不条理さえもが解き明かされたような気分を味わうことができるでしょう。

 

 今回ご紹介する作品にも《共感覚*1》に関する不思議なエピソードが添えられています。それを真実とみなすこともできますし、文学的なメタファーと捉えることもできますが、いずれにしても読み手の感度の違いによってさまざまに解釈が広がる作品に仕上がっています。

 

『死者として生きる』

 主人公の多崎つくるは高校時代に4人の友人と常に行動を共にしていた。彼は一人故郷を離れて東京の工科大学に進んだが、大学二年生の時、何の前触れもなくグループから追放されてしまう。心の傷から離れるために、つくるは過去も未来も削ぎ落したような日々を送り続けた。

 

 彼はその時期を夢遊病者として、あるいは自分が死んでいることに気づいていない死者として生きた。日が昇ると目覚め、歯を磨き、手近にある服を身につけ、電車に乗って大学に行き、クラスでノートを取った。強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに、彼はただ目の前にあるタイムテーブルに従って動いた。

 

 絶望の淵に在ることは『自分が死んでいることにまだ気づいていない死者として』生きることだと述べられています。しかし、目の前の局所的な時間にしがみつく姿は、傍目には一般的な日常のあり方と変わりないものでもありました。

 

つくるは東京で規則正しく、物静かに生活を送った。国を追われた亡命者が異郷で、周囲に波風を立てないように、面倒を起こさないように、滞在許可書を取り上げられないように、注意深く暮らすみたいに。彼はいわば自らの人生からの亡命者としてそこに生きていた。

 

 つくるは沙羅という女性と出会い、友人たちの居場所を探してもらい、グループから追放された理由を聞くために「巡礼の旅」に出ました。その旅のあとで、上記のように『亡命者』のように暮らした頽落的な日常について振り返っています。

 

 そもそも、人は絶望の淵にいる時に限らず、多かれ少なかれ局所的な時間にしがみつき、大衆に紛れ込んで匿名的で亡命者のような在り方をしているのではないでしょうか。この物語が描こうとしているのは、ごく普通の暮しを送る私たちが、ほんのわずかな手違いによって人生の落とし穴に落ち込み、あたふたしている光景なのかもしれません。

 

【本物の人生にようこそ】

 物語は辛い過去を切り捨てるのではなく、自分を作り支えるものとして捉え直し、さらに自らの運命として背負おうとする、つくるの心の軌跡を描いています。それを『歴史は消すことも、作りかえることもできない』『それはあなたという存在を殺すのと同じ』という沙羅のセリフで言い表されています。

 

 ところで、本作には灰田という男が語る不思議なエピソードが挿入されています。それは《共感覚》の一種と思われる『人がそれぞれもつオーラの色が見える能力』についての話です。そしてその能力は『自分の死を引き受けることと引き替えに与えられる』とされます。初読の時にはあまりの突拍子のなさに加えて、その意図が理解できないために正直戸惑いました。

 

 詳しくは書きませんが、このエピソードは物語終盤における、つくるがグループ内で発揮した特殊な能力への気づきと覚醒、沙羅の愛と引き替えの《死への先駆*2》といった場面にリンクしています。『もし明日、沙羅がおれを選ばなかったなら、おれは本当に死んでしまうだろう』といった心境にありながら、胸の痛みや息苦しさでさえ愛おしさの一部に感じられる。『本物の人生にようこそ』という作中のアカの印象的なセリフが思い浮かびました。

 

 本書を読んで感じたことを言葉にするのは簡単なことではありません。ただ、平凡な人生を送ってきた私が捨てた過去の苦い歴史を思い返してみたり、自分自身が気付かない特殊な能力があるのかも♡、なんて考えてみたりしました。その能力に気付いてしまった時に、怖ろしい死が迫って来るのだけは避けたいところですが(-_-;)

*1:共感覚:例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりするような、ある1つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく 異なる種類の感覚も自動的に生じる知覚現象

*2:死への先駆:己の死へと先駆け、己の死へと向き合うことが本来的な実存の可能性であるというハイデガーの説