村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑧シェイディー・ヒルの泥棒】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 『シェイディー・ヒル』は美しく、平和な高級住宅地の名前です。そんな場所にもかかわらず、泥棒行為をしなくてはならないところまで経済的に追い詰められた人が出てきていまいます。本作を読みながら、私は昔聞いたことのあるたとえ話を思い出していました。

 

『忍び込みからの生還』

 ワンマン経営者からのパワハラを受けたジョニーは、会社を辞めて個人事務所を立ち上げるが、たちまち破産寸前の状況に陥った。心配かけまいとして、妻と子供たちには秘密にしてきたが、振り出した小切手が来週不渡りになれば、全てが明るみになるだろう。苛立ちと妄想が彼を衝動的に突き動かし始める。夜中の3時にこっそりと家を抜け出した彼は知人宅に忍び込み、家主の分厚い札入れを盗み取って帰宅した。

 

ああ、ぼくは知らなった。人がこれほど惨めになり得るものか。心がこれほど多くの小部屋を開き、そこを恥辱の念でしっかり満たせるものかを。鱒が群れる渓流とか、そういった若き日の無垢な愉しみはどこに消えてしまったのだ?騒がしい水の流れの、濡れた革のような匂い。叩きつける雨の後のきりっとした森の香り、あるいはホルスタイン牛の吐息のような、草いきれの匂いが混じった解禁日の夏のそよ風ーーー頭がくらくらしてくる。

 

 罪悪感に満たされ神経崩壊の瀬戸際に立たされながらも、銀行で入金を済まし盗んだ財布は指紋が見つからないように拭ってゴミ箱に棄てた。それでもなお、彼は繰り返し近隣住宅への「忍び込み泥棒」を試みる。

 

【放蕩息子の帰還】

 『放蕩息子の帰還』はイエス・キリストが語ったとされるたとえ話です。放蕩息子の故郷への帰還を、父親が祝宴を開いて受け入れるという物語を通して、神に逆らった罪人を迎え入れる神のあわれみ深さが込められているとされます。

 

 このたとえ話には、放蕩のかぎりをつくした弟の所業を軽蔑し、そんな弟の罪を赦す父親の行動に不満をぶつける兄が登場します。父親はこの兄をたしなめる*1のですが、その言葉は教条主義者の傲慢さへの戒めを含んでいるとされています。

 

 私たち読者は本作を通じて『放蕩息子』が犯した罪と神のもとへの帰還を疑似体験します。「忍び込み泥棒」を繰り返したジョニーは、奇跡的な幸運によって救い出され、元の安定した生活に戻ることが出来ました。ホッと胸をなでおろすと同時に、あっさりと罪が許されたことに一抹の危惧が湧いてきました。それはたとえ話に登場する兄が感じた違和感と同じものです。

 

 思い起こせば、私にも今の職を失いかねない窮地に陥り、九死に一生を得た苦い経験があります。あの時の自分はあまりにも未熟すぎて、回心の気持ちはおろか、救われたことへの感謝の気持ちすら怪しいものでした。なぜ自分は救われたのか? 私に救いの手を差し伸べた人はどんな裁定を下していたのか? その答えはいまだに分かりません。

 

 理由も分からず免罪された弟と、弟を赦した裁定を不服とする兄が、宙ぶらりんな状態で今も私の中に居座り続けています。そんなことを思い浮かべながら、本作を読みました。

*1:『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』(「ルカによる福音書」より)