村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑩カントリー・ハズバンド】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 本作は、1956年にO・ヘンリー賞を受賞した、ジョン・チーヴァーの代表作の一つです。冒頭では、飛行機事故で命を落としかけた男性が家に帰る場面が描かれています。家族は彼の体験に関心を示さず、彼も事故とは別の問題を次々と抱え込むのですが、その結末や如何に。

 

『架空の街シェイディ・ヒル

 ジュリアの夫フランシスは、4人の幼い子供たちの父親で、中流階級が住む架空の街シェイディ・ヒルの住民です。出張帰りの飛行機が緊急不時着し、恐怖に怯えながら彼は我が家に辿り着く。しかし、妻と子供たちはそれぞれに個人的な問題で騒ぎ立てています。

 

フランシスは言う。ちょっと待ってくれ。ぼくは今日、飛行機事故であやうく命を落とすところだったんだぜ。毎日夕方うちに帰ったらそこが日々戦場だった、みたいなことは勘弁願いたいものだね。今ではジュリアはすっかり激している。彼女の声は震えている。帰ってきたら毎日うちが戦場だったというわけじゃないはずよ。そんな言い方は馬鹿げているし、ちょっとひどすぎる。あなたが帰ってくるまでは騒ぎなんて何ひとつなかったのよ。

 

 今まで見えていなかった問題が次々と表面化していく。ベビーシッターの件もそのひとつ。パーティーからの帰宅後、ベビーシッターを車で送る途中、彼女の身の上話に情が移り、彼女の思わせぶりな態度も相まって恋心が芽生えてしまう。夫婦仲に深刻な亀裂が生じた後も、フランシスはベビーシッターへの思慕が収まらず、精神科医を訪ね、セラピーとして木工に取り組むよう勧められる。

 

【理由なき世界】

 訳者の村上春樹は『一つの時代の有りようが誠実に、そして闊達に描きあげられている』と述べています。また、本書を高く評価した当時の批評家は『美しく描かれたミニチュア小説』と呼んでいます。これらの評価は、この作品が現実をよく映し出していることを示しています。主人公がコミュニティーを支配する軽薄なモラルと、自身の内なる激しい感情の間で悩みながら、結局どこにも行き着かないというシュールな展開がそれを表現しています。

 

 例えば、物語の終盤はこんな感じです。コーヒーテーブルを作り始めるフランシス、息子はマントを身にまとってひと暴れ、隣家の中庭では全裸の夫婦が追いかけっこし、盗んだスリッパをくわえた犬のジュピター。これらは現実と地続きのような「理由なき世界」のあり様を示していて、何とも言いようのない奇妙な感動を覚えます。

 

 小説や現実の中に「理由なき世界」を見出す私たちは、無条件にそれを見届けているのでしょうか。むしろ、私たち自身の中の「意味あるもの」「絶対的なもの」によって、そうした認識に至るのではないでしょうか。主人公の不器用ながらも律儀で礼儀正しい言動を読み返すと、何らかの精神によって「理由なき世界」の輪郭を浮かび上がらせようとする作者の意図が感じられます。

 

 ところで、私たちの認識を支える「意味あるもの」「絶対的なもの」はどこからやって来るのでしょうか。「理由なき世界」を私たちはどのように生きればよいのでしょうか。残念ながら、その答えを本作から読み解くことは出来ないようです。(もしわかった方がいれば、こっそり教えていただきたいです(^^)/) それでも、ジョン・チーヴァーがこの短編集全体を通じて目指そうとしたものが、おぼろげに見えてきました。引き続きお付き合いくだされば幸いです。