村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【女のいない男たち】(『女のいない男たち』より)

Amazonより

 この作品集は《女のいない男たち》というテーマを中心に、それぞれの短編がそのテーマを取り巻く形で収録されています。表題作でもある本作はこのコンセプトを総括する内容になっていますので、関連するシーンを振り返りながらご紹介したいと思います。

 

 物語は夜中の一時過ぎにかかってくる電話から始まります。電話の相手は低い声で「妻が先週の水曜日に自殺をしました」と告げると、それ以上何も言わずに電話を切ってしまいます。

 

『エムの死』

なぜ彼が僕のことを知っていたのか、それはわからない。彼女が僕の名前を「昔の恋人」として夫に教えたのだろうか?何のために?またどうやって彼はうちの電話番号を知ったのだろう。

 

 彼女(仮にエムと呼ぶ)の夫が言ったことを「僕」は受け入れました。そして、エムの死の理解するため、過去の記憶を辿り自分自身を見つめ直していきます。

 『結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。(『ドライブ・マイ・カー』より)

 

『十四歳の出会い』

僕は実を言うと、エムのことを、十四歳のときに出会った女性だと考えている。実際にはそうじゃないのだけれど、少なくともここではそのように仮定したい。僕らは十四歳のときに中学校の教室で出会った。たしか「生物」の授業だった。

 

 「僕」は十四歳の自分に戻り、人を信じ、愛することの始まりを再演します。そこには、疑うことをまだ知らない「純粋な受容」がありました。

 『この女は実際に時間を遡り、十七歳の自分自身に戻ってしまったのだ。前世に移動するのと同じように。シェエラザードにはそういうことができる。その優れた話術の力を自分自身に及ぼすことができるのだ。(『シェエラザード』より)

 

『世界中の船乗りたち』

でももちろん僕が再び彼女を失う時はやってきた。だって世界中の船乗りたちが彼女をつけ狙っているのだ。僕一人で護りきれるわけがない。僕だってちょっとぐらい目を離すことはある。眠らなくてはならないし、洗面所にもいかなくてはならない。

 

 生身の人間は『船乗りたち(=他律的な本能)』の誘惑に誘われて、魂とは別の器官が勝手に動き出します。非論理的な「私的領域」が私たちの本来の姿でもあります。

 『しかし僕らの人生を高みに押し上げ、谷底に突き落とし、心を戸惑わせ、美しい幻を見せ、時には死にまで追い込んでいくそのような器官の介入がなければ、僕らの人生はきっとずいぶん素っ気ないものになることだろう。(『独立器官』より)

 

『ワインの染み』

あなたはそのようにして女のいない男たちになる。あっという間のことだ。そしてひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深くしみこんでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれたワインの染みのように。

 

 身体に深くしみこんだ『染み(=心の傷)』が《女のいない男たち》の証。私たちは傷ついた心を抱え、その色の移ろいと、輪郭の多義性と共に生を送っていくしかないのでしょう。

 『それは彼が長いあいだ忘れていたものだった。ずいぶん長いあいだ彼から隔てられていたものだった。そう、おれは傷ついている、それもとても深く。(『木野』より)

 

【コンセプト・アルバム】

 村上春樹は「コンセプト・アルバム」を念頭に置きながら本書を書いたと語っています。「深く愛した女性が去ってしまったとき、どのようにして男たちはそれを理解し、悲しみ、傷を癒し、立ち直ることができるか」というテーマが、各短編を通じて様々に掘り下げられ、同時に全体として一つの大きな作品を形作っています。

 

 精緻に作り込まれたこの小説は、現実から切り離されて独自の世界を作り出しているかに見えます。誤解を恐れずに言えば、言語を扱うこと自体が、語り手の内面から切り離された汎用化のプロセスです。文学であれ、現実であれ、私たちは試行錯誤を繰り返しながら、他者の痛みや想いに、あるいは自分自身の心にたどり着きたいと夢見ているのではないでしょうか。

 『明日僕らがどんな夢を見るのか、そんなことは誰にもわからないのだから。(『イエスタデイ』より)