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この作品集は、《女のいない男たち》というテーマを中心に収録されています。表題作でもある本作は、このコンセプトを総括する内容になっています。本書の関連するシーンを振り返りながらご紹介したいと思います。
夜中の一時過ぎにかかってくる電話から物語は始まります。電話の相手は低い声で「妻が先週の水曜日に自殺をしました」と告げ、それ以上何も言わずに電話を切ってしまいます。
『エムの死』
なぜ彼が僕のことを知っていたのか、それはわからない。彼女が僕の名前を「昔の恋人」として夫に教えたのだろうか?何のために?またどうやって彼はうちの電話番号を知ったのだろう。
彼女(エム)の夫が言ったことを「僕」は受け入れました。そして、エムの死の理解するため、自分自身を見つめ直します。その姿は『ドライブ・マイ・カー』で高槻が語った次のセリフを彷彿とします。
『結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。(『ドライブ・マイ・カー』より)』
『十四歳の出会い』
僕は実を言うと、エムのことを、十四歳のときに出会った女性だと考えている。実際にはそうじゃないのだけれど、少なくともここではそのように仮定したい。僕らは十四歳のときに中学校の教室で出会った。たしか「生物」の授業だった。
「僕」は十四歳の自分を振り返り、人を信じ、愛することの始まりに立ち戻ります。そこには、疑うことをまだ知らない「純粋な受容」がありました。それは下記のように『シェエラザード』が示してくれた過去へと時間を遡る道筋でもあります。
『この女は実際に時間を遡り、十七歳の自分自身に戻ってしまったのだ。前世に移動するのと同じように。シェエラザードにはそういうことができる。その優れた話術の力を自分自身に及ぼすことができるのだ。(『シェエラザード』より)』
『世界中の船乗りたち』
でももちろん僕が再び彼女を失う時はやってきた。だって世界中の船乗りたちが彼女をつけ狙っているのだ。僕一人で護りきれるわけがない。僕だってちょっとぐらい目を離すことはある。眠らなくてはならないし、洗面所にもいかなくてはならない。
生身の人間は『船乗りたち(=他律的な本能)』の誘惑に誘われ、魂とは別の器官が勝手に動き出します。非論理的な「私的領域」を持つことこそが、偽りのない本来の姿の私たちです。そうした在り方について『独立器官』では次のように語っていました。
『しかし僕らの人生を高みに押し上げ、谷底に突き落とし、心を戸惑わせ、美しい幻を見せ、時には死にまで追い込んでいくそのような器官の介入がなければ、僕らの人生はきっとずいぶん素っ気ないものになることだろう。(『独立器官』より)』
『ワインの染み』
あなたはそのようにして女のいない男たちになる。あっという間のことだ。そしてひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深くしみこんでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれたワインの染みのように。
身体に深くしみこんだ『染み(=心の傷)』が《女のいない男たち》の証となります。私たちは傷ついた心を抱え、その発色の移ろいと、その輪郭の多義性と共に生を送っていくしかありません。旅路の果てに『木野』もそうした心境に至っています。
『それは彼が長いあいだ忘れていたものだった。ずいぶん長いあいだ彼から隔てられていたものだった。そう、おれは傷ついている、それもとても深く。(『木野』より)』
【コンセプト・アルバム】
村上春樹は「コンセプト・アルバム」を念頭に置きながら、本書を書いたと語っています。「深く愛した女性が去ってしまったとき、どのようにして男たちはそれを理解し、悲しみ、傷を癒し、立ち直ることができるか」というテーマが、各短編を通じて様々に掘り下げられ、同時に全体として一つの大きな作品を形作っています。
精緻に作り込まれたこの小説は、その文学的な完成度の高さゆえに、現実から切り離された仮想世界を作り出しているかのように見えます。しかし、誤解を恐れずに言えば、言語を扱うこと自体が、現実から切り離された汎用化のプロセスです。文学であれ、現実であれ、私たちはいつの日にか他者の痛みや想いに、あるいは自分自身の心にたどり着く可能性を夢見ているのではないでしょうか。そんな風に私は感じました。
『明日僕らがどんな夢を見るのか、そんなことは誰にもわからないのだから。(『イエスタデイ』より)』