北海道に舞台を移すことで、物語は一段とスケールアップします。羊博士に羊男の神話的なアーキタイプ(元型)が登場し、物語は羊が象徴する思想の終焉というカタストロフィーに向かって突き進みます。
【あらすじ】
「僕」とガールフレンドは、羊を探すために北海道に向かった。電話帳から無作為に選んだ「いるかホテル」で羊博士と運命的に出会い、博士が提供した手がかりをもとに、ある地方の町にたどり着く。かつてアイヌの青年と開拓民たちが切り開いたその土地に、謎の羊、鼠、羊博士、右翼の大物などが集結し、さまざまな思惑が交錯していく。
『羊博士の転落』
1934年に羊博士は東京に呼び戻され、陸軍の若い将官にひきあわされた。将官は来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて羊毛の自給自足体制を確立していただきたい、と言った。それが羊博士と羊の最初の出会いだった。
羊博士は北方圏共栄の志を抱いて大陸に渡り、そこで羊に出会いました。この羊は長い眠りから覚め、日本の中枢に潜り込み、アジア諸国に苦しみをもたらしました。その後、博士は『羊抜け』の状態で無為の余生を送ることになります。
『十二滝町の盛衰』
現在の十二滝町のある土地に最初の開拓民が乗り込んできたのは明治十三年の初夏であった。彼らは総勢十八名、全員が貧しい津軽の小作農で、財産といえば僅かな農具と衣服・夜具、それに鍋釜・包丁くらいのものだった。彼らは札幌の近くにあったアイヌ部落に立ち寄り、なけなしの金をはたいてアイヌの青年を道案内に雇った。
アイヌの青年と開拓民たちは町の礎を築きました。それはドラマチックな共同体の誕生過程ですが、政府の介入が進むつれ、彼らが享受していた自由な自治も次第に奪われ、町は平凡で退屈な田舎へと変わっていきました。
『「僕」の夢想』
鼠が経営し、僕が料理を作る。羊男にも何かできることがあるはずだ。山小屋レストランなら彼の突飛な衣装もごく自然に受け入れられるだろう。(中断)ジェイ、もし彼がそこにいてくれたなら、いろんなことはきっとうまくいくに違いない。全ては彼を中心に回転するべきなのだ。許すことと憐れむことと受け入れることを中心に。
『僕』は中国人バーテンダーのジェイを中心にした山小屋レストランを夢見ます。『許すことと憐れむことと受け入れること』という言葉には、私たちの社会に向けた深いメッセージ込められているように感じられます。
【ねじれの問題】
アイヌの青年が燃やした情熱が国家の体制に取り込まれていく様子は、読んでいて胸が痛みます。しかし、ボクたちも国民国家の成立以降、否応なく国民としての義務と責任を背負わされてきた現実は、アイヌの青年の立場とさほど変わらないのかもしれません。そして、ボクたちが果たすべき責任の中には、取り扱いの難しい問題も含まれています。
例えば、批評家の加藤典洋は『敗戦後論』の中で、日本は戦争責任の取り方について《ねじれ》を生じさせていると指摘しています。彼によれば、「戦没者の追悼」と「アジア諸国への謝罪」について、すべての人々が納得できる解決策がないため、結論が出されずに棚上げされている状態が続いていているというのです。
物語の最後に『僕』と鼠が起こした反撃の狼煙は、ボクらの鬱憤を一時的に晴らしてくれましたが、現実社会の《ねじれ》を根本的に解消するものではありません。アジア諸国との関係において《許すことと憐れむことと受け入れること》を基盤にした社会への道筋は、今のボクにはまだ見えません。