村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ドライブ・マイ・カー】(『女のいない男たち』より)

Amazonより

 短編集『女のいない男たち』の冒頭に収録されている作品をご紹介します。本作は濱口竜介監督によって映画化され、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞しました。

 

『口数の少ないドライバー』

 通常であれば家福は女性の運転する車に乗ることを好みません。臆病さやその反動の大胆さ、緊張感といった彼女たちの気配を苦手にしていたからです。運転免許停止になった家福に紹介された渡利みさきの運転にはそうしたものが感じられないことから、愛車の代行運転を彼女に任せることにしました。

 

 ぶっきらぼうで、口数の少ない彼女の運転する車の助手席に座るようになって以来、なぜか家福は亡くなった妻のことをよく考えるようになります。家福と妻は俳優業を生業にしていて、仕事は順調で経済的にも安定していました。表面的には二人とも満ち足りた波乱のない結婚生活を過ごしてきたものの、時折妻は彼以外の男と寝ていました。

 

『口に出来なかったこと』

なぜ他の男たちと寝たりしたのか、その理由を妻が生きているときに思い切って聞いておけばよかった。彼はよくそう考える。実際にその質問をもう少しで口にしかけたこともあった。君はいったい彼らに何を求めていたんだ? 僕にいったい何が足りなかったんだ? 彼女が亡くなる数か月前のことだ。しかし激しい苦痛に苛まれながら死と戦っている妻に向かって、そんなことはやはり口にできなかった。

 

 妻が亡くなったあと、彼女のセックス・フレンドのひとりであった俳優の高槻に、家福は友だちを装って近づきます。それは妻がその男と寝た理由を知るためであり、男を懲らしめるためでもありました。ところが、憎むべき高槻から不意に発せられた曇りなき純真なる言葉は、家福の息苦しい気持ちを鎮めることになりました。

 

『僕らはみんな演技をする』

 時に私たちは、生身の人間が抱え持つ宿痾に傷つけられます。愛すべき人、信頼すべき人の背信行為は耐え難いものですが、その心に負った深い傷から立ち直るにはどうすれば良いのでしょうか。家福のようにその人の実像をとことん追い求めるか? 高槻の言うように自身の心を掘り下げて人の世の摂理を見つめるか? あるいは渡利みさきの助言に従い、すべては人の病のなせる業と諦めるか?

 

「そして僕らはみんな演技をする」と家福は言った。「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」家福は革のシートに深く身を沈め、目を閉じて神経をひとつに集中し、彼女がおこなうシフトチェンジのタイミングを感じ取ろと努めた。しかしやはりそれは不可能だった。すべてはあまりに滑らかで、秘密めいていた。

 

 ものごとの事実と本質が乖離する世の中を、誰もが与えられた役を演じながら生きています。互いの演技の裏に隠された秘密が、憎しみの暗闇なのか、曇りなき純真なのか、知る由もなく・・・

 

 さて、本作を含む短編集『女のいない男たち』は、題名の通りのコンセプトで構成されています。深く愛した一人の女性がどこかに去ってしまったとき、どのようにして男たちはそれを理解し、悲しみ、傷を癒し、そして立ち直ることができるかといったモチーフが様々なシチュエーションで取り上げられます。不定期になりますが、次回以降ご紹介していきたいと思います。

 

 当ブログでは『映画:ドライブ・マイ・カー』のご紹介も行っています。よろしければ読み比べてみてください。