村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【極北】

 本書は英国作家マーセル・セローによる《近未来サバイバル小説》です。旧ソビエトの取材に基づく緻密な描写、随所に敷かれた伏線、リアルで重厚なディストピア観が特徴です。翻訳は村上春樹

 

《あらすじ》
学技術は地上に壊滅的な被害をもたらした。人々は極北の地に逃げ延びたが、厳しい生存環境下で治安を維持していくことは叶わない。そんな人類の生き残りメイクピースは、無人の町で細々と日常性を維持していたが、仲間と共に暮らす夢が完全に失われると衝動的に入水自殺を図った。しかし、死の淵で複葉飛行機の飛影を目撃する。

 

『もう一人きりじゃないんだ』

しかしそれが告げているのは、絶望のゆえに自らを放棄してはならないということだった。死と災害から慰めを見出すというのも変なものだ。しかし空を飛ぶ飛行機の姿は私に、自分はもう一人きりじゃないんだということを教えてくれた。

 

落して炎に包まれる飛行機を目撃したとき、メイクピースは自分が文明社会の最後の生き残りでは無いことを確信した。過去の残骸以上の何かが、この世界のどこかに残されている。なんとしてもそれを見つけ出そうと心に決めた。

 

【人生の通過儀礼

 あとがきによると、著者はテレビのドキュメンタリー制作の傍らで小説家としても活躍する才人です。父親は以前このブログで紹介した作家のポール・セロー。この長編小説『極北』で見事にブレークし、父親と同様に小説家として高く評価されています。

 

 本書の目次には「第一部」・・・「第四部」の無味乾燥なタイトルが並び、その内容は秘密のベールに包まれています。読者は主人公の一人語りを頼りに、物語の舞台が何処なのか、世界がどうなっているのか読み解いていきます。これ以上内容を明かすことは避けますが、本書は私にとって人生の通過儀礼のような特別な読書体験になりました。

 

 そもそも作者がこの小説の構想を思いついたのは、2000年に英国テレビ局の制作する特別番組のためにウクライナを旅したときのことです。チェルノブイリ近郊の居住禁止区域で、原始的な暮らしを送る女性を取材しています。個人が人にも社会にも依存せずに生きることを余儀なくされたとき、世界が終末の様相を見せることをこの時発見しました。前代未聞の未来図がここから始まります。

 

 2023年5月の今、改めて読み返すと、ウクライナにおける悲惨な侵略と重なって暗澹たる気持ちになります。本書を読み進めれば、衣食住の充実や名誉や富を求める私たちの価値観は軋み始め、読み終える頃には、まわりに見える景色はこれまでとは違ったものに変わることでしょう。そして、自分にとって本当に大切なものが何なのかを考えるきっかけが貴方にも訪れるはずです。ぜひ読んでみて下さい。