村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑨緑したたる島】(『ワールズ・エンド(世界の果て)』より)

  本書の最終話はプエルト・リコに駆け落ちした若いカップルの話です。緑したたるその島は、楽園のイメージとは裏腹に若き二人に厳しい現実を迫ります。この最終話を通じて、いつものように本書全体を俯瞰してみたいと思います。

 

《あらすじ》
人は妊娠という厄介な問題を先送りするためにプエルト・リコにやってきた。結婚も考えてはいたが、関係が長くは続かないことを互いによく分かっていた。女は生まれてくる赤ん坊を二人で養うのか、それとも誰かに譲るのか、男に決断を迫る。

 

『あなたどうするつもりなの?』

「さあ、気持を決めてよーーーあなたどうするつもりなの?」「まだ何ヵ月かあるじゃないか」「六週間よ」と彼女はぴしゃりと言った。「あなた、何が望みなの?」

 

心も無く、妻帯者で、勤め人で、もうすぐ父親になろうとしている自分。この島は簡単に彼の中身を抜き取ってしまおうとしている。しかし、彼女に内緒にしていたが、彼には手放してはならない夢があった。

 

【創作の原点】

 短編集のご紹介の冒頭で《内なる他者との遭遇》が共通するテーマだと述べました。《内なる他者》とは制御の効かないもう一人の自分です。見えざる意志として人生に働きかけ、人の世の摂理を解き明かすメッセージを投げかける存在でもあります。

 

 例えば、中年の危機を描いた『①ワールズ・エンド』、モラトリアム青年の『②文壇遊泳術』、思春期の少女の葛藤『③サーカスと戦争』では、《内なる他者》が主人公と対峙する構図になっています。

 

 恋の逃避行の『④コルシカ島の冒険』、神話の誕生『⑤真っ白な嘘』、至高の芸術『⑥便利屋』では、個人を超えた普遍的な《他者性》が物語に介入し、コミカルな要素も相まって味わい深い世界観を作り出しています。

 

 エリートの疎外感『⑦あるレディーの肖像』、モラリティの衝突『⑧ボランティア講演者』では、社会がその内側に作り出す《他者性》に焦点が当てられ、社会問題について考えさせられました。

 

 最終話はこれまでとは少し様子が違います。彼女の未来を巻き込んだ駆け落ちや、お腹の中の子への道義的責任から、青年は作家になる夢をあきらめて凡庸な勤め人になろうとしますが、《内なる他者の声》は彼の無謀な野心を肯定し、再び夢に向かう気持ちを後押しします。本作は一連の旅行記小説の始まりを描くと同時に、深い業を背負ったポール・セローの創作の原点を描いているように考えることもできます。しかし、彼を導いた声の正体は謎に包まれています。

 

 以上で短編集『ワールズ・エンド(世界の果て)』の全てのご紹介を終えました。次回以降で関連作品をひとつご紹介します。件のお腹に宿った子かどうか分かりませんが、彼の息子が父親をもしのぐ大作を発表しているので、この機会に取り上げてみたいと思っています。