村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【日々移動する腎臓のかたちをした石】(『東京奇譚集』より)

 本作は短編集『神の神の子どもは踊る』に収録された『蜂蜜パイ』の続編になっています。前回のご紹介で、主人公の淳平と作者の視点を重ね合わせて短編集全体を俯瞰してみました。その後の淳平が描かれた本作からも、短編集の全体像に迫ってみたいと思います。

 

《あらすじ》
平は父親から「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」という奇妙な箴言を聞かされた。父親と疎遠になってからも、淳平は新しい女性と知り合うたびに「この女は自分にとって本当の意味を持つ相手なのだろうか」と自問した。そうして31歳になった彼は、ある日、知人が開いたパーティーでキリエという名の女性に出会う。

 

『この世のあらゆるものは意志を持っている』

「ねえ、淳平くん、この世界のあらゆるものは意志を持っているの」と彼女は小さな声で打ち明けるように言った。淳平は眠りかけてる。返事をすることはできない。彼女の口にする言葉は、夜の空気の中で構文としてのかたちを失い、ワインの微かなアロマに混じって、彼の意識の奥に密やかにたどり着く。

 

リエの誘いに導かれて淳平は一つの物語を書きあげた。それは文芸雑誌に掲載されたが、音沙汰が途絶えてしまったキリエにその感想を聞くことは出来なかった。彼女こそが『本当に意味を持つ女』だったことに淳平は気付く。そして彼は心を決めた。

 

ユング心理学

 かつてフロイト心理学において人間の生命活動の原動力を性的な本能と定義したのに対し、ユング心理学では性的な本能を超える《リビドー(=心的エネルギー)》が普遍的無意識に存在すると再定義されます。

 

 その《リビドー》の中でも「意味を求める心性」は、《元型》という擬人化した姿で人の意識に働き掛け、自我意識や心の多面性を作り出します。こうした概念は、芸術分野を中心に多くの識者に支持され、さまざまな創作活動に影響を与えました。

 

 本作に登場する『腎臓のかたちをした石』も、本来は無意識の中で働きかける《リビドー》が、意識の外部で顕在化したと比喩的に捉えることも出来ます。それは、創作した淳平自身を突き動かし、自己を客観的に見つめる契機を導きました。

 

 この短編集の一つ一つの作品を振り返ると、ユング心理学との親和性に改めて気付かされます。例えば、『偶然の旅人』は「意味ある偶然の一致を指す《共時性》」、『ハナレイ・ベイ』は「本来的自己への到達過程を指す《個性化》」、『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は「個性化の過程で心理的窮境が及ぼす《精神分裂》」などの取り合わせが感じられます。

 

 我が国にユング心理学の療法を初めて導入した河合隼雄村上春樹は、繰り返し対談を重ねる親しい関係でした。その河合隼雄は本書が発行されて間もなくしてこの世を去りましたが、彼こそが村上春樹にとって『本当に意味を持つ』一人であったことは想像に難くありません。彼の名著を読めば、村上作品の味わいは一層深まります。もし興味をもたれた方は『ユング心理学入門』あたりからお勧めします。

 

§追記§

 新作『街とその不確かな壁』が発売されましたね。私も発売初日に手に入れました。読み終えたらさっそくブログでご紹介!といきたいところですが、私のブログは独自の見解をモットーにしたうえに「ネタバレ」を伴ってしまいます。新作の書き込みは自重すべきではないか? もしくは、一般的な書評が世間に浸透するのを待つべきではないか?それは一体いつになるのか? アイデアがひとつ浮かんではいるのですが、上手くいくか? ただいま思案中(*´з`)°゜