村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【③サーカスと戦争】(『ワールズ・エンド(世界の果て)』より)

 ポール・セローの3作目は異国の家庭にホームステイする少女の話です。古い家父長制の伝統が残る《世界の果て》で、15歳の少女がひとり反旗を翻す姿が描かれます。

 

《あらすじ》
ィーリアは、ロンドンからフランスの田舎にホームステイでやってきた。家の主人ラモー氏の高圧的な態度に接して、嫌な気分になる少女。退屈な娘、不細工な娘、気楽なおしゃべりもできないイギリス娘・・・そう思われているに違いない!一刻も早く終ることを願いつつ過ごしていたある日、もったいぶった口ぶりのラモー氏からサーカスを見に行くというサプライズが発表された。

 

『サーカスには行きません』

「あのお」とディーリアはもう一度言った。手の震えをとめるために、彼女はじっと空のグラスを握りしめていた。ディーリアのグラスに水を注ぎながら、ラモー氏は話をつづけた。「世界でも他に類を見ないものらしい。あらゆる点で贅沢なんだ。象やら虎やらライオンやらーーー」「私、サーカスには行きません」

 

女が見に行きたくない理由は、サーカスの裏で行われている動物虐待への義憤だった。好意を無下にされたラモー氏はこれを快く思わない。彼は戦争体験を引き合いにして「ナチスが自分たちに行った暴力に比べれば、調教で振るわれる暴力など問題ではない」と切り出した。

 

【影の投影】

 このブログで繰り返しご紹介しているユング心理学の《影》の概念について、改めてご説明します。

 

 光があたってできる影のように、その人の心の暗く否定的な側面(例えば、自分自身について認めがたい部分、人生で生かされなかった部分)が、無意識の領域に《影》を作り出します。《影》は私たちが日常的に関わる他者に投影され、「どうも虫が好かない」「イライラさせられる」という形で認知します。もしそれを受け入れ、統合することが出来れば、人格に深みと奥行きをもたらすと考えられています。

 

 サーカスの動物虐待を問題視する少女の意見には一理ありますが、本質的には彼女の劣等感がそこに転化されていることは明らか。一方の家の主人が引き合いにしたナチスの暴力にも、屈辱の記憶が潜んでいるように感じられます。結局のところ、二人は相手の言葉と態度に自分自身の《影》を投影して火花を散ら合っているようです。

 

 私は二人のいがみ合う姿に、過去の自分の過ちや弱さを投影して、しばし目を閉じて心の痛みに悶絶しました。まさしくそれが私自身の《影》だとしても、簡単には受け入れられないのが人のサガというもの。ポール・セローの刻む言葉の一つ一つが心に染み入ります。

 

 本書の連載を始めた冒頭で《内なる他者との遭遇》が共通テーマであると述べました。今回取り上げた《無意識の影》は個人レベルにおける他者性を指します。そしてさらに私たちの心の奥には、個人を超えた領域があると言われているのですが、それについては次回以降で触れたいと思います。