村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑮父親との会話】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 グレイス・ペイリーは本書のエピローグで、作品に登場する父親について次のように語っています。

『どのような物語の中に居を構えていても、彼は私の父である、医学博士にして、画家にしてストーリーテラー、I・グッドサイトです』

 今回ご紹介する作品は、彼女に大きな影響を与えた父親と彼女の創作の原点にまつわる物語です。

 

《あらすじ》
床の父がモーパッサンチェーホフが書いたような短篇を、作家である娘にリクエストした。そこで、彼女は向かいの家に住んでいる婦人をモデルにして物語のモチーフを作り上げた。息子と共にジャンキーになったものの、その後まっとうな人間に立ち直った息子に捨てられた母親の話。父はその物語が気に入らないために、彼女に不満をぶつけ始めた。

 

ツルゲーネフならそんなふうには書かない』

ツルゲーネフならそんなふうには書かない。チェーホフだってそんなふうには書かない。それから他にもお前が名前を聞いたこともないような、お前には思いもよらないような、見事なロシアの作家たちがいる。彼らはごく当たり前の話を書いた。彼らはお前が捨て去って語らないようなことを、きちんと書くと思うよ。」

 

は作家として父を喜ばせるような小説を書きたいと切に思う。でも、これまで私は予定調和的に結ばれる小説を見下してきた。そういう小説は人間からあらゆる希望を取り上げてしまうからだ。

 

【他者との会話】

 哲学者のレヴィナスは「我思う、故に我在り」という近代思想を批判して、「我」に同化し得ない「他者の重み」を知ることを哲学の出発点と考えました。ここでいう「他者」とは私たちが通常イメージするような他人のことではありません。「我」の理解から無限に隔たる予測不可能な存在、それが「他者」です。

 

 例えば、無人島に一人取り残される状況に置かれたとき、「我思う、故に我在り」などと考えるでしょうか? 何よりもまず孤独から抜け出そうとするのではないでしょうか。理性の始まりに「他者」の存在は欠かせません。なぜなら「他者の他性」こそが孤独を打ち破り、理性を突き動かす契機だからです。同時にそれは「我」に内包されることを拒み、「我」の存在意義を揺さぶります。 そうした逡巡を経てようやく「我思う~」という概念が始まる、とレヴィナスは考えました。

 

 本作に登場する父親も、同化を拒む「他者」として登場します。激しく対立しながらも、父親との会話を通じて自分の考えを掘り下げていく主人公の姿が描かれます。それにしてもこの父親にしてこの娘あり、といったお互いの意地の張り合いがなんともユーモラス。

 

 前回の作品⑭で、人の理性に含まれる暴力性や支配欲について言及しました。そこには「他者を無理やり従わせようとする全体性の問題」が潜んでいます。しかし「他者」とじっくりと向き合う時、倫理的な呼び掛けが内なる声として聞こえてくるはず。この《他者との対話》にこそ、理性をより正しく導くポイントが隠されているのではないでしょうか。

 

 グレイス・ペイリーの小説は、人々とのコミュニケーションを通じて健全な理想世界を志向しています。(実際にはその想いが高じすぎて、ハチャメチャな結末に至ることの方が多いのですが・・・)彼女は20世紀最大の女流作家の一人に数えられるようになった理由がそこにあるのだと思われます。