村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑫政治】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 ペイリーの短編集と誕生日アンソロジーを交互にご紹介しているうちに、アメリカ文学専科の様相を帯びてきたので、改めてブログの趣旨を確認しておきます。このブログは、村上春樹の長編・短編・翻訳作品及び関連する創作活動の一つ一つをすべて紹介するという試みです。翻訳作品が4か月近く連続していますが、村上春樹本人の作品も近々登場しますので、もうしばらくお待ちください。

 

 さて、今回はグレイス・ペイリーの『民間伝承モノ』です。毎回ややこしい寓意に翻弄されていますが、最近ではそれが癖になったのか快感すら覚え始めてきました。

 

《あらすじ》
ューヨーク市の財政監査委員会の公聴会で、母親たちが感情豊かに歌を歌った。子供たちの遊ぶ公園を改良してほしいと。高い塀で囲んで欲しいと。そうして浮浪者や変態や共産主義者を追い払ってほしいと。連中をブルックリン行きの貨物に詰め込んでほしいと声を合わせて歌いながら訴えた。

 

『誰一人として異議を唱えるものはいなかった』

会計検査官(稀代のしぶちんとして知られている男だ)は言った。「わかりました。わかりました。このケースに関しては、わかりました。高いフェンスでさっそく囲むことにしましょう。いや、急いでやりましょう。もちろんもちろん……」その場ですぐに彼は電話を取り上げ、公園課と交通局と児童福祉課を呼び出した。彼のきっぱりしとしたもの静かな声の前では、誰一人として異議を唱えるものはいなかった。

 

聴会に出席した関係者のなかで感銘を受けなかった者は一人もいなかった。理性的判断を欠いた強引な要望にもかかわらず、母親たちの見事なハーモニーに飲まれて役人たちは大衆に迎合し始めた。

 

【反抗的人間】

 物語のなかで、警官が身分証明に内ポケットからカミュの『反抗的人間』を取り出す場面がありますが、それには次のようなことが書かれています。

 

反抗は、すべての人間の上に、最初の価値を築きあげる共通の場である。

われ反抗す、ゆえにわれら在り (『反抗的人間』より)

 

 例えば、世の中について深く知りたいと望むなら、必然的にさまざまな不条理と対峙することになります。その不条理を見定め、それを乗り越えようとする原初的な意志についてここでは《反抗》と呼んでいます。しかし、人は一人では不条理を見定めることも乗り越えることも困難。他者との対話と連帯によって、それが可能になるとカミュは考えました。

 

 物語のなかで政治的活動を行った母親たちも、警察の威信失墜を理由に実力行使に出た警官も、世の中に異を唱えて《反抗》に及んだという点で共通しています。ただ残念ながら母親たちは非理性的であり、役人たちは優柔不断であり、警官に至っては盲目的であると言わざるを得ません。

 

 グレイス・ペイリーは市民の政治参加の顛末をシニカルに描いています。それは社会活動家である彼女自身の体験を振り返っているように見えますし、市民革命が挫折を繰り返してきた歴史を寓話にしているようにも見えます。しかしその意図については作者は沈黙を保っています。

 

 ひとつ言えるとすれば、カミュの不条理が外からやって来るものであるのに対し、ペイリーのそれは人の内側から現れる、ということでしょうか。自他ともに認める《反抗的人間》の彼女は《内なる不条理》にどうやって立ち向かおうとしているのでしょうか!?この続きは次回の作品で。