村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑬ノースイースト・プレイグラウンド】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 今回は作者のグレイス・ペイリー自身をモデルにした『フェイスもの』です。彼女の作品はアメリカ人にとっても簡単に吞み込める文体ではなかったようです。20世紀を代表する女性作家と呼ばれた彼女が、かつてはアメリカ文学界において理解されない時期があったことを伺わせる作品です。

 

《あらすじ》
の日の午後に遊び場(プレイグラウンド)を訪れた時、私は生活保護を受けている母親たちに遭遇した。彼女たちは未婚の母、娼婦、麻薬中毒患者であり、赤ん坊を連れて砂場を占領していた。

 

『どうしてここに集まっているの』

どうしてあなたたちここに集まっているのかしら、と私は尋ねてみた。

たまたまこうなっちゃったのよ、と一人が言った。最初に二人が出会ったのよ、ともう一人が言った。それで気が合っちゃって、それぞれの友だちを紹介していったってわけ。

 

のような孤立化が子どもたちに悪い影響を及ぼしていることを私(フェイス)は彼女たちに忠告した。そして、かつてこの砂場に対立する政治理念を持つ母子たちが共に座っていた頃の話を語り始めた。しかし案の定、即座に中断を余儀なくされ、その場から追い出されてしまった。

 

【公的領域と私的領域】

 政治哲学者であるハンナ・アーレントは、人にとって大切な活動の場とされる《公的領域》について語っています。共同的な《公的領域》は、家族的な《私的領域》とは違い、意見の違う他人の存在が欠かせません。人は他人がいるからこそ世界を認識することができ、他人に聞かれることで言葉は現実味を帯びます。《公的領域》はこのような人々を一堂に会させるテーブルの役割を果たしています。

 

 例えば、物語の舞台である『砂場』は、象徴的な意味で《公的領域》のテーブルになり得るのですが、ここでは同じ境遇で身を寄せ合う母子たちの《私的領域》に成り下がっています。このような状況はそこに集う人々を同質的に扱い、違いを受け付けない閉鎖空間を作り出してしまいます。現代社会が作り出している問題は、このような画一的閉鎖空間であり、人々に無数の制約を押し付けて自由な活動を疎外しているとアーレントは主張します。

 

 この物語はグレイス・ペイリー社会運動家としての初期段階を振り返っているように見えますし、作家としての彼女の作品意図が批評家や読者に届かない頃のジレンマを描いているようにも感じられます。確かに、本作には誤解を招きかねない表現が随所にあり、寓意を正確に読み取るには他の作品との関係を考慮する必要があります。しかし先入観なく読み進めれば、ひとりの市民として作者の想いが伝わってくるはずです。

 

§追記§

 本日ノーベル文学賞の発表がありましたが、今年も残念ながら村上春樹の名前は挙がりませんでした。毎度身勝手な期待を膨らませてしまっていることを反省しつつも、この敗北感(!?)をエネルギーに変えながらこの先もブログを続けて行こうと思います(*´з`)