村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【海辺のカフカ(下)】

 先の『海辺のカフカ(上)』では、『父を殺し、母と姉と交わる』と予言された少年の受難が描かれました。彼は機能不全家族の影響と思われる解離性障害により予言を疑似体験してしまいす。それはまるで、ポストモダン思想の文脈に掲げられた「エディプス・コンプレックス」「分裂症」「無意識の欲望」を彷彿とさせます。

 

 本書と同じ系譜の『世界の終りとハードボルド・ワンダーランド』においても、ポストモダン思想の影響を色濃く受けたモチーフが描かれていました。そこでは、その思想に背を向けるかのように、主人公が森の奥へ入っていく場面で物語は幕を閉じました。森の奥にいったい何が待っていたのか、それは謎のままにされています。

 

 今回ご紹介する『海辺のカフカ(下)』では『入り口の石』の封印が解かれ、カフカ少年は四国の森の奥に導かれます。今再び森の奥の秘密が明かされようとしているかのように。

 

《あらすじ》
「入り口の石」の謎の鍵を握るナカタは佐伯のいる図書館に向かう。ナカタが帰ると、佐伯は机に突っ伏すようにして死んでいた。同時に、カフカは森の奥で軍服を着た2人の逃亡兵と出会い、彼らの案内で小さな町にたどり着き、そこで死んだはずの佐伯と再会する。

 

『子を捨てた母』

「私は遠い昔、捨ててはならないものを捨てたの」「私がなによりも愛していたものを、私はそれがいつかうしなわれてしまうことを恐れたの。だから自分の手でそれを捨てないわけにはいかなかった。奪いとられたり、何かの拍子に消えてしまったりするくらいなら、捨ててしまったほうがいいと思った」

 

人の命を暴力的に奪われたショックで、佐伯は離人症を発症していた。彼女は過去を振り返りながら、傷ついた心と母親の責任の葛藤のなかで下した決断についてカフカに率直に語る。その時、彼の心の中には過去を書き換える新たな母親像が形作られていく。

 

【アンチ・オイディプス

 哲学者ジル・ドゥルーズ精神分析家フェリックス・ガタリは、ポストモダン思想の代表作『アンチ・オイディプス』のなかで、フロイトエディプス・コンプレックス*1に対する反論を展開しています。

 

 例えば、人の心に生まれる本来の欲望は、あらゆる境界を踏み越える自由な感性です。しかし、フロイトエディプス・コンプレックス論は、欲望を近代的な核家族の固定したイメージに縛り付け、際限なく働き、際限なく稼ぐ、といった資本主義システムの偏執的な土壌を作り出したと述べています。

 

 ドゥルーズ=ガタリは、エディプス・コンプレックスから解放される人間像を分裂症患者モデルに見出しました。巨大な資本主義システムの前で、多くの人たちが怖気づいてエディプス化されるなか、分裂症の彼らは本来の欲望に従ってあらゆる境界を乗り越えて自由で陽気な人間になる、というのが彼らが提唱する《ポストモダン思想》です。

 

 『海辺のカフカ(下)』では、離人症の佐伯と健忘症のナカタ老人が出会い、『入口の石』によって物語世界に風穴を開けます。しかし、彼らはけっして「自由で陽気な分裂症患者」などではありません。死の淵に直面したために、自分が無力で欠落した人間であることを深く身にしみて知る人々です。そんな彼らにこそ、世の中の本当を垣間見る資格が与えられるという文学的解釈によって、本書は新たな《アンチ・オイディプス論》を成立させています。

 

 一方、森の奥で明かされた秘密は、私たちが素朴に信じてきた「母性神話の崩壊」でした。母親による母性の否定は、今なお私たちの社会ではタブー視されています。しかし、その神話の崩壊が、母に捨てられた少年の心に新たな希望を生み出します。物語は、私たちがタブーと思って避けてきたものの中に、時として真実が隠されていることを示唆しています。

 

 さて、まだまだ語り足りないのですが、目安の文字数を超えてきたのでここで終わりにします。この作品は2012年に蜷川幸雄によって舞台化され好評を博しました。2018年の再演舞台を観劇しましたが、とても感動的だったのを記憶しています。

*1:男子が母親に性愛感情をいだき父親に嫉妬する無意識の葛藤感情で、父親を殺し母親と結婚したギリシア神話のエディプス王にちなんで名づけられた。