村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【海辺のカフカ(上)】

 本書は【カフカ少年】と【ナカタ老人】の各章が交互に進行し、互いに呼応しながら一つの物語を形作っていく構成です。先に発表された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で同様の手法が用いられていることをご存じでしょうか。

 

 以前このブログで『世界の終り~』をご紹介したときには「閉塞的なシステムの中で心の自由を得るにはどうすればよいか」というテーマを取り上げました。作者の村上春樹は、当時流行していたポストモダン思想やニューアカの学者たちが提示する見識に反して、作品の中でアンチテーゼを展開しているのだと読み解きました。

 

 今回の作品にも、日本社会の閉鎖的システムの中で心を傷つけられた人々が登場しています。そして「このシステムの出口を探しながら心の回復をはかる」という前作同様のテーマが描かれるのですが、果たして今回導こうとするその答えは何でしょうか?文庫版の構成に従って(上)(下)2回に分けてご紹介します。

 

《あらすじ》
フカは東京都中野区野方に住む15歳の中学3年生である。父親にかけられた呪いの言葉から逃れるために家出をし、香川県高松の私立図書館に通うようになった。同じく野方に住む知的障害のある老人ナカタは「猫殺し」の首謀者でありカフカの父親らしき男と対面する。

 

『これは戦争なんだ』

「君はこう考えなくちゃならない。これは戦争なんだとね。それで君は兵隊さんなんだ。今ここで君は決断を下さなくてはならない。私が猫たちを殺すか、それとも君が私を殺すか、そのどちらかだ。」

 

と会話が出来る特殊能力をもつナカタ老人に、最も耐え難い理不尽な選択が突き付けられる。なぜこんな『戦争』に巻き込まれなくてはならないのか?『ジョニー・ウォーカー』を自認するこの男の正体は何者なのか?

 

【テクスト論の終焉】

 小説から作者の意図を汲み取る《作品論》に対して、書かれてある言葉のみに注目してテクストを自由に解釈しようという立場を《テクスト論》といいます。1980年代以降、文芸批評の世界では《作品論》から《テクスト論》への大転換が起きたと言われています。

 

 ところが、本書に描かれる『ジョニー・ウォーカー』や『カーネルサンダース』といったキャラクターは、あえて《テクスト論》の前提を揺さぶるような存在として登場しています。

 

 『ジョニーウォーカー』は奇怪な姿で物語に侵入し、残忍なやり方でナカタ老人を扇動します。『カーネルサンダース』は『入り口の石』を巡る旅の途上で唐突に現れ、公序良俗など意に介さず星野青年を翻弄しています。テクストの文脈からは到底理解出来ない彼らの傍若無人ぶりに、批評家をはじめ読者の誰もが戸惑ったに違いありません。

 

 このような物語が恣意的に操作される状況は、例えば、映画『マトリックス』で描かれた外部(現実)から何者かが内部(仮想現実)に介入していく場面によく似ています。私たち読者はそのような介入によって、いやが上でも作者のメッセージや作品の背景を探りながら読み進めることになります。すなわち《テクスト論》的な読みは行き詰まり、村上作品という強烈な個性をもつ《作品論》に立ち戻らずにはいられなくなります。

 

 さて、このあとも奇想天外な怪奇譚が繰り広げられます。そこには15歳の少年の視点で世の理を読み解く教養文学的な要素が盛り込まれています。なかでも私たちが素朴に信じる『家族の神話』が新たな神話に編み直されるところはこの作品のキモではないでしょうか。次回は物語の筋書きに即して具体的に作品のメッセージをご紹介します。引き続きお付き合いください。