村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑩重荷を背負った男】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 今回ご紹介する作品には《合理主義》に取り憑かれた男が登場します。ここでいう《合理主義》とは実利や効率を最優先する行動原理を指します。私には男がアメリカ社会に時折現れる「保守反動」を象徴しているように感じられます。

 

《あらすじ》
の男は金銭的な重荷を背負って生きている。生活上の出費の全てに彼は不満を抱いた。そもそも男は相当な高給をとり、将来を見越して貯蓄もしていた。それでも妻や息子の日々のささやかな散財は、彼の苛立ちを極限にまでつのらせる。ある日、息子が隣人から借りたズボンを破いて五ドル九十八セントを請求されたとき、男は耐え切れなくなってブチ切れた!

 

『手の中の二枚の硬貨』

玄関口で、彼は声もなく、隣人に六ドルを現金で支払い、釣りの二セントを受け取る。彼は自分の手の中の二枚の硬貨をじっと見る。自分が文無しになったような気がする。なんだか気が遠くなってしまいそうである。強くならなくてはと思って、彼はその二セントを隣人に向って投げつける。隣人は悲鳴をあげて逃げ出す。彼は二ブロック追いかける。

 

官が駆けつけ取り成したおかげで二人は冷静さを取り戻し、互いに自分たちの非を詫びた。この事がきっかけで男と隣人の女は、日曜日ごとに互いを訪問する親しい仲となった。そしてある日、最悪の事件が起きる。

 

【テクスト論】

 ハリソン・フォード主演の『心の旅』という映画をご存じでしょうか? 家庭を顧みない仕事一筋の弁護士が、強盗事件に巻き込まれて記憶喪失になったのをきっかけに、真実の愛情に目覚める過程を描いたヒューマン・ドラマです。

 

 ハリソン・フォード演じるヘンリーは、銃撃による後遺症を懸命なリハビリで克服しながら、過去の自分の冷酷な行動と、冷え切っていた夫婦関係を再構築します。妻と娘は人が変わったように優しさを示すヘンリーに戸惑いながらも、家族の絆が深まることに充足感を覚えます。最悪と思える出来事も、その後の生き方次第で最高に転じるという教訓が描かれていました。

 

 さて、本作では男が不倫を疑われ、人妻の夫から銃撃を受ける事態に陥ります。銃撃を受けて以降『彼はもうほとんど不幸というものを感じることがなかった』とあるものの、先の映画のような「その後の生き方」や、ほのぼのエピソードなどは描かれません。作者はあえて描かないことで多様な読みを容認しているようです。『心の旅』が一つの結末に閉じているのに対し、本作は読み手の解釈に開かれているという意味で対照的な作品でした。

 

 作品を作者の意図に支配されたものでなく、自立したものとして読むべきとする概念を《テクスト論》と言います。作品は読者の視点による多様な読まれ方によって永遠性を獲得しますが、そのような概念を逆手に取って極限まで作品を切り詰める手法を《ミニマリズム》と呼びます。

 

 冒頭書いた「男が保守反動を象徴している」という私の勝手な見解は、本作の《ミニマリズム》が引き寄せた多様な読みの一例です。本当はその「保守反動」と「合理主義」の関係について書きたかったのですが、長くなりそうなので止めます。また、名作『心の旅』を引合いにしましたが、この映画と本作のどちらに優劣があるとも思っていません。私自身『心の旅』を観てとても感動したことを付け加えておきます。