村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑭リトル・ガール】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 今回はグレース・ペイリーが書いた《民間伝承もの》です。これまでにはなかった残虐な描写が登場しますが、そこには本書のテーマを追求するうえで、避けられない理由があるようにも感じられます。

 

《あらすじ》
人のカーターは公園で家出少女をナンパし、友人のチャーリーのアパートに連れ込んで事に至る。その場には同居人のアンジーがいたが、彼は麻薬でラリっていた。その後、便所の窓から放り投げられた少女の死体が見つかる。カーターは警察に出頭し、アンジ―には逮捕状が出された。

 

『誰も口を割らなかった』

誰も口を割らなかった。警察は誰からも自白を引き出すことができなかった。その娘を、ぐしゃぐしゃの骨を詰めたずた袋みたいに持ち上げて、五階の窓からひょいと放り捨てちまったのは誰なのかを特定する証拠はとうとう上がらなかった。

 

のところあれは誰もやってないんじゃないか、と彼らの友人のチャーリーは考える。もしかすると、自分の人生が潰された惨めさに、彼女は自ら身を投げたのではないだろうかと。自分たち弱者にはどうにもできない力が及んだのではないだろうかと。

 

【道具的理性】

 物語の顛末は、スラム地区での麻薬の蔓延が原因であることがほのめかされています。アメリカにおける麻薬の取り締まりの実情は、刑罰の厳格化や治療プログラムの策定などの紆余曲折を経て、現在では経済的な根拠に基づいた合法化が進められているようです。

 

 例えば、麻薬の刑罰を厳格化すれば刑務所は収容能力を超え、検察手続きが麻薬犯罪に占められてしまいます。合法化によって、麻薬市場をコントロールすることができ、粗悪品を排除して医療分野の負担軽減につながるともいわれています。さらに、飲酒やタバコと比較した有害性の議論も加わって、いかにもアメリカらしい「合理性」が形成されつつあります。しかしそこには、「支配する側の論理」のみが先行していないでしょうか?

 

 本作には、強者が考える理想と、弱者のあいだで起こる現実との落差が描かれています。優れた知性の推し進める啓蒙が合理的な社会を打ち立ててきたのは事実です。しかし、その合理性の根っこには、目的を貫徹するために人々を暴力的に支配していく《道具的理性*1》が潜んでいます。先進的なはずの社会が、たびたび混沌とした野蛮状態に陥る理由がここにあるのではないでしょうか。

 

 こうして考えてみると、物事を知的に理解していく強者の論理には落とし穴があることに気づかされます。智慧と権威が高じるにつれ、むくむくと黒い支配欲が芽生えてくるのは一部の独裁者ばかりではありません。私たちは強者の論理に盲点があることを自覚して《道具的理性》を自戒し続ける必要があるのではないでしょうか。

 

 今回は物語が描く暴行事件のあまりの陰惨さに衝撃を受けて、今回はネガティブな記述に終始してしまいました。次回も『最後の瞬間の大きな変化』によってもたらされる何かを探っていきます。

*1:啓蒙の根底には知識を得ることによって対象を効果的に操作しようとする意図があるというフランクフルト学派の理性の概念。