今回は表題作のご紹介です。『神の子どもたちはみな踊る』は、ジャズのスタンダード・ナンバーから来ています。「しかめっ面なんかしてないで、歌って踊れば悩みなんて振り払えるよ!」と歌った黒人霊歌が原曲です。陽気なリズムをイメージしながら本作を読み進めてみたいと思います。
《あらすじ》
母親と暮らす善也は神谷町の出版社に勤めている。信仰にのめり込む母親の突発的で破滅的な行動が心配で、25歳の今にいたるまで彼は家を出ることができずにいた。ある日の帰宅途中、耳たぶの欠けた男を目撃した彼はあとをついていった。「欠けた耳たぶ」は彼の生物学的な父親に関する数少ない手がかりのひとつだった。
『僕は何をもとめていたのだろう』
僕はいったいこのことで何をもとめていたのだろう?歩を運びながら善也は自分に問いかけた。僕は自分が今ここにあることの繋がりのようなものを確かめようとしていたのだろうか?自分が新しい筋書きの中に組み込まれて、より整った新しい役割を与えられることを望んでいたのだろうか?
義也は自分が追い回していたものの正体が、自分自身の「影」であったことに思い至る。そして、神様のお使いで被災地に赴いた母親のことを思い、別れた恋人のことを思った。信者の一人である田淵さんのやせ細った手を最期に握ったときのことを思った。自分を取り巻く物事の輪郭が、少しずつ明確になっていくのを義也は感じる。
【教条主義VS批判主義】
物語の主人公のように、自分を取り巻く環境がどうしても受け入れ難いと感じられる場面が、誰の人生にもきっと訪れます。そんな時には、それまでに自分が抱えていたものの見方を一から考え直してみる必要性が生じます。
哲学者のカントもそうであったかは分かりませんが、彼は人間の理性・感性などを根本から問い直しています。それは「私は何を知り得るか《純粋理性批判》」「私は何を為し得るか《実践理性批判》」「私は何を望み得るか《判断力批判》」という有名な三つの問いです。
そのカントが下した結論のひとつが、「人間はこの世界の本質を客観的に認識することは出来ない」というものです。例えば、「真、善、美」という理想は、「認識され得るものではなく、ただ意志され得るだけだ」と彼は語っています。
もし仮に、人間や世界の「ほんとう」が全て明らかになってしまったとしたら、私たちはそれ以上に何かを知ろうとすることも、何かを成そうとすることも出来なくなりはしないでしょうか。それはむしろ自由を奪われるのと変わりありません。こう考えると、カントが導いた「人は世界の本質を認識し得ない」という結論は、逆説的に私たちの自由意志を保証してくれています。
この物語には、幼いころから自分を拘束してきた教条主義に対して、カント的な批判主義を自分の中に取り込むことで人間的な成長を遂げる2世信者の生き方が描かれています。ただこの作品は、教条主義と批判主義のどちらが正しいかを問題にしているわけでもないようです。その両極を行きつ戻りつしながら、自由でしなやかな心を失わないことが何よりも大切であるように私には感じられました。