村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【アフターダーク】

 本書は、部屋に閉じこもって眠り続ける姉と、そのことに思い悩む妹の物語です。妹は夜の裏街をさまよい、人々とのふれあいを通じて人生の哀歓を味わいます。

 

 作者が感銘を受けたというロベール・アンリコ監督の映画『若草の萌えるころ』へのオマージュでしょうか。カメラ・ワーク的な情景描写、ト書きの表現、セリフの頭に配役が記されたりと「シナリオ形式」の少し風変わりな作品でもあります。

 

《あらすじ》
夜零時のファミレスで熱心に本を読んでいる若い女性がいた。フード付きパーカーにブルージーンズの彼女のもとに、ひとりの男性が近づいて来て話しかける。同じ時刻、閉ざされた部屋で椅子に腰かけた男が、ベッドで眠っているもう一人の若い美しい女性を見つめていた。

 

『無言の悲鳴・見えない血』

「ちょっと思ったんだけどさ、こんな風に考えてみたらどうだろう?つまり、君のお姉さんはどこだかわからないけど、べつの『アルファヴィル』みたいなところにいて、誰かから意味のない暴力を受けている。そして無言の悲鳴を上げ、見えない血を流している」

 

橋の干渉を煙たく感じていたマリだが、次第に心を開いて互いに抱える問題を打ち明け合う。そして、マリ(=妹)の心の変化に呼応するかのように、異空間に閉じこめられて眠っていたはずのエリ(=姉)が目覚め始める。

 

【無意識の世界】

 心理学者の河合隼雄は、精神分析の視点で本書を読み解いています。主人公のマリの無意識の世界で起こる出来事を象徴的に描いた作品というのが彼の解釈です。

 

 例えば、自我が外界を見渡したとき何が起こっているか分からない隠れた物事があるように、もし自我が内界を見通せば、心の中にも自分の知らない世界が広がっています。つまり、マリのまわりで起こる高橋やカオルとの交流の場は無意識の表層、中国人の娼婦を傷つけた白川や姉のエリのいる場所は無意識の深層で起きたことを描いていることになります。

 

 外界の出来事は内界と呼応し合っているために、本書に描かれるようなマリの心の変化の為には、その外界と内界の両方を改変する必要があり、それは『ものすごいエネルギーを使う大変なことなのだ』と河合氏は語っています。

 

 こうした見解が学術的根拠を持つのか私には分かりませんが、村上春樹も別のところで『自分の心の井戸を深く、深く、掘っていくと、つながるはずのないものがつながる』と語っていることから、両者の見解は一致しているように思われます。

 

 物語の主人公マリは、かつて姉のエリが抱きしめてくれたというささやかな記憶を頼りに、彼女の中のエリの人物像とその背後の世界像を作り替えていきます。それは眠り続けるエリの意識に共鳴し、やがて微かな予兆が訪れます。

 

 自分の心の奥底を掘り進めることで、他者の痛みや苦しみに出会い、深いつながりが生まれる。それは他者を癒し、自分自身を癒す。誰もが本書を通じてそうした不思議な人間の成長過程を疑似体験するのではないでしょうか。かつて村上春樹がフランス映画『若草の萌えるころ』に深く触発されたように。